理事長の引き出し


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49.長州の選択

2023年7月25日

今年の春までの三年間、日本という国と日本人全体がコロナに罹って入院しているかのような生活を強いられてきた。それが突然五類へ変更されたということで普通の生活へ戻りつつある。ワクチン接種も行き渡っているので日常生活と経済活動をOFFからONへ転換できるのだろう。日本は体制とか価値観の転換に対して柔軟に対応できる国・国民性であると思う。かつては傲慢な隣国と同様に国益と覇権が第一であって、国体護持のためならば、国民すべてを犠牲にできる偏狭な正義に基いて世界に喧嘩を売りまくって最後は滅亡してしまった。喉元過ぎて時を経れば嫌なことは忘れ去られる。おそらくコロナへの愚かな過剰対応の結果が招いた国家の損失についても、その責任も時とともに忘れ去られることと思う。

先の大戦で日本を亡国に導いたのは、当り前に時の為政者である。しかし、当時、その為政者や議会よりも力をもって戦争を主導したのは軍部と右翼組織であることも歴史の事実である。中でも陸軍は各地で「事変」を起こし、「事件」で威嚇して自己の横車を押し続けてきた。その結果が日本中の絨毯爆撃と原爆投下である。陸軍には負けを認める概念が無いのだろうか。「長州陸軍」と謂われるように陸軍は高杉晋作の奇兵隊から始まり大村益次郎によって軍隊組織として完成され、以後長州閥を中心とした人事で組織を熟成させてきた。長州人の観念的な理念の強さと合理性を合わせ持った理想的な組織であったはずなのに、どこかで箍がはずれたのか、合理性を欠いた精神主義の組織となってしまった。そこに本当の謙虚さがあれば、目的を達成できなかった時点で負けを認め、原点に返り、再起を図るべきであったと思う。その負けを認める決断と選択が適切であったなら国民の犠牲は最小限に押さえられ、陸軍への恨みもそれ程でもなく戦後の軍部に対するアレルギーも無かったかもしれない。

戊辰戦争の終盤、恭順の意志を持つ会津藩と長州藩は積年の恨みを晴らすために報復戦争を行った。武士の面目を立て平和裏に終わらせることができたのにも拘わらず、戦をけしかけ、終わった後も戦死者の埋葬を厳禁とし、人の道をも踏み躙った対応を会津人に行った。戦争の目的は達成しているのに不要な仕打ちを選択する精神構造がその後の陸軍の不合理さを生んでいるのかもしれない。その結果が現在に至るまで、会津若松市は萩市の謝罪・和解案を受け入れないこととなっているのだろう。幕府の雇ったワグネル「新撰組」を指揮下に置いて長州勤皇派を多数殺戮したことを根に持ってのことと思われても仕方がない。

司馬遼太郎は言う。「会津藩というのは封建時代の日本人が作り上げた藩というものの中での最高傑作」だと。その藩の人間に「許さない」と思わせた長州藩は何か選択の基準が間違っていたのではないか。強権によって被害を受けた側は、戦争であれコロナ対策であれ感情的になるのは仕方がない。相手を意地にさせるような選択だけは避けて、物事を解決したいものである。

48.国防の気概

2023年2月15日

「もう戦争はしてはいけない」と戦争を体験した人もしていない人も枕詞のように異口同音に言う。確かに誰しも戦争はしたくないだろうし、特に敗け戦はコリゴリと多くの人が思うに違いない。

どんな戦争も必ず「自衛」とか「自存」「予防」などの正当化のための美名によって起こされている。先の戦争では日本人は国や民族を守る「気概」があったから、敗戦を迎えるまで玉砕を重ね、悲惨な特攻攻撃を繰り返したのだろう。そして守ろうとした国は、国民から全てを奪ったけれど何一つ与えてはくれなかった。戦前の国家と軍隊は国民に「国を守る気概」を要望しながら、自分達の組織の事を優先しただけで国民の幸せには思いが至らなかったのであろう。

「国を守る気概」を国民に求めるなら、「国」は国民が犠牲をいとわずに守りたくなるような「国」であってほしい。ロシアのような理不尽な侵略戦争だけは、やってはいけないし、それが出来る能力を保持するべきではないと思う。最近、降って湧いたように防衛力強化と防衛費負担の増税が話題となっている。それを強化して有事に備えることは、国や国民を守るということにおいて必要だと思うが、旧軍の暴走や右翼化の歴史を考えると、「国を守る気概」が熟成して、大多数の国民が納得してからの議論ではないだろうか。

かつて明治期においては元勲の影響力が強大であるにもかかわらず、帝国議会は陸海軍の予算増額を認めなかった。その挙句、日清戦争開戦に海軍の艦船は間に合わなかった。その後のロシア戦に備える際にも議会は増額予算を認めない。流石に国防の危機と思われたのだろう。明治天皇自らが、資金を出し、国の指導者達と官僚、役人の俸給の一割を充当することで議会は増額を承認したのである。この時代の議会は違う意味での「国と国民を守る気概」を持っていたと思う。ウクライナ侵攻以来、食料品、燃料・電気代と生活に直結するものが急騰している。当然、家計の負担軽減が政策の最重要課題と思われる時に、更なる負担政策に注力して国民の生活を苦しい方向に導くような国を、犠牲を払ってでも守りたいと思う人がそんなにいるだろうか。

47.還暦

2022年2月25日

新型コロナが世界中を蹂躙し始めて二年目の春、昨年の万朶の桜の時期に還暦を迎えた。落ちぶれたわけでもなく、悪事でもないのに世間から隠れるようにひっそりと身内で祝ってもらった。まるで逼塞の如く昼夜を問わず出入が制限されていて「戦時下」を彷彿させられる。

両親が必要としているから世に生を得て、その両親の庇護の下、大切に育てられ、その両親の役に立とうと努力しているうちに六十年の歳月が過ぎ去ってしまった。人間五十年の時代から思えば十年は余禄、化天の内を比ぶれば夢幻の如しであったと思う。

無理矢理、赤いちゃんちゃんこを着せられて、写真に納まる自分は、否応無しに高齢者を意識させられる。意識しながら、子として、親として、夫として、経営者として、相応しい人間であるのだろうかと考えさせられる。自分は相応に年月を積み重ねてきたのだろうか。とりたてて完璧であろうなどとは意識したことはない。この節目が、様々な事を振り返る機会と今後の生き方を考える時間を意識させてくれたのである。

「もう齢だから」は使わない。張り合いたいからではなく自分に対しての言い訳のような気がして嫌なのである。今後は新しい事を面倒臭がることなく謙虚に受けとめ、時代に取り残されない努力をしていきたい。「齢だから判るように教えて」を常用してスマホ決済とポイントの世界を手に入れた。現在は日常生活において、スマホとカードで用を成しており殆ど現金を使うことはない。このお陰でグループの各施設は全て電子マネー決済が当り前となった。

そして無理をしない。車の運転も経営も自己満足を追求して無理をしても結果は良い事にはならない。このコロナ禍の中、三密は悪なのである。効率の追求は過去の競争原理として経済の歴史に煌めくであろう。今必要なのは如何に利用者を感染から守るか、如何に感染リスクを少なくするかであって、利用者数の多さを誇ったり自慢することではない。

次に、当り前のことだが、自分の健康は自分で守る努力をすることである。薬で調整して維持されている身体は健康ではない。健康な体躯でない頭で考えることは碌な事はなくバランスの崩れた思考と成り易い。若い頃から激しい運動と不摂生な生活をしてきた自分が、今更ながら健康的な生活を意識するのも滑稽なのだが、家族になるべく迷惑をかけないよう努力することに決めた。

早寝早起、朝食を主に三食きっちり食べ、毎日一万五千歩のウォーキング。人は人、苛々しない。コロナ禍の下、これを続けているだけでどれ程体調も良く、幸せな思いで過ごせてきたことだろう。

飲食店を含む世の中の施設は、この二年間、消毒や感染対策を不断の努力でやってきた。個人も不要不急の外出や旅行を控えてきたと思う。ワクチンを打っても、未だにコロナ蔓延は収束の気配を見せない。そんな中で還暦を迎えて思った事は、消毒されていない現金を使わない、無理をしない、自分の健康は自分で守る。そんな事しか思いつかない自分が情けない。

先日、二人目の孫が生まれた。こんな時代に生を受けた事を逞しく思う。爺は過剰過敏ではない健康児である事を祈っている。

46.罷馬と矛盾

2021年9月25日

コロナ禍二年目の秋、立秋を迎えオリンピックも終わり、処暑を過ぎてパラリンピックが開催されている中、二十一の都道府県に「緊急事態宣言」が、十二の県に「まん延防止等重点措置」が出されている。この宣言、措置が出される都度思う事なのだが、前回、前々回の苦難の努力は意義のある事であったのだろうか。その努力によって毎回感染者数が減っているのならいざ知らず、回を追うごとに感染者数は増加し、新記録を打ち立てているのが現状だ。一年前と比べて感染対策は拡まり、手指消毒、マスク着用、三密を避けることは新しい文化となっているにも拘らずだ。

 不要不急の外出は控えるようにと言いながらGoToトラベルには潤沢な予算をつけて利用しないと損ですよと言わんばかりの割引を付けて旅行を促す。多数での飲食はクラスター発生の可能性が高まるので縮小をと言いながらのGoToイート。お得ですよ。買わなきゃ損ですよ。そして店を利用しましょう。特定の業種を支援するための施策であるのなら、国民のお得感を煽る必要はなく、その特定業種に雇用維持を含めた支援をすれば良いのであって、その方が蔓延には繋がらない。観光・飲食業界だけに支援をする疚しさからお得を売りにしたのだろうか。現在はGoToは中断されているので感染拡大には寄与していないと思うが、酷く矛盾を感じるのは私だけだろうか。

 国民にはささやかな楽しみにすら我慢を強いて、飲みに行くな食べに行くなと言っている官僚・政治家が、送別会、意見交換云々と言い訳を用意して自分達は方針を無視しても許される特別な人間とでも言わんばかりに国民感情を平気で逆撫でする。中にはチャンスとばかりに支援給付金を詐取する輩を輩出する役所まで存在する。このような状況の中で我慢に我慢を重ねてきた国民は、真面目に対応してきた人ほど阿呆らしくなっている。「罷馬は鞭箠を恐れず」という言葉があるように、宣言や措置を発する側に問題がある場合、真摯に指示に従うことは馬鹿らしく思われ、指示の重さを感じなくなり意味の無いものとなってしまう。

 オリンピック・パラリンピックは実行されるのに国体は二年連続で中止する。各地方の種々な祭や花火大会は中止となる。しかしプロ野球はやっているからか甲子園大会はやる。居酒屋や飲み屋の飲食店には時短支援金を出すが本屋や靴屋の商店には支援金はない。従業員を休業させ仕事をさせなければ給料は国が手当してくれる雇用調整助成金。雇用を維持する事が目的であるのなら雇用を維持して休業せずに仕事を継続させた企業がより負担を強いられているのだから、より手厚く助成されるべきではないか。失業手当や生活保護と同様に「仕事をしないこと」を前提に助成するというのは雇用の概念から考えて矛盾を感じる。全国民に向け「仕事をしなかったらお金をあげますよ」と言っているのと同じだ。この制度を拡大運用していると、気概の無い経営者ほど経営が楽になるという結果になる。雇用を維持し休業せず仕事をやってもらい賃金を払う企業の頑張りに対して助成するべきと思う。

 文句ばかり並べ立てたが、様々な矛盾が罷り通る世の中である以上、早くコロナ禍が過ぎ去って欲しいのは万人の願いであっても簡単に収束するのは難しく、今以上の蔓延が手を替え品を替え拡大していくかもしれない。そんな事になったらコロナも仲間に入れて仲良く共存していくのが正解かもしれない。矛盾の根源が改善されない限り。

45.国威発揚?

2021年5月25日

「オリンピックの目的は国威発揚にある」という発言がオリンピック憲章に反するとして問題になったことがある。この用語は隣国の軍事パレードやロケット打ち上げの報道で耳にすることがあるが、要は国家が対外的に国の威信、威光を強くアピールすることである。

本来、オリンピックとはアマチュアリズムを基本とし、古代の平和の祭典を目指して世界的なスポーツ大会を開催することが提唱され現在に至っている。「国を挙げてのメダル争い」は国力を比べる目安として国際社会が認知している結果ではないだろうか。そして開催国もオリンピックを国際社会に国力を誇示する一大イベントと認識しているからこそオリンピックが盛大になり、それを国策に使おうとする指導者が現れ、ナチス政権は巧みに「国威発揚」に利用したのである。

かつてオリンピックは二度流会している。それは戦争が原因である。平和の祭典なのだから当たり前。世界中の人々が殺し合い、住む処を失い、その日を生きることが大変な時に「平和の祭典スポーツ大会」どころではなかった。そんな余裕があるなら国民の生活を第一に考えて欲しいというのが常識的な国民感情である。だから第二次大戦下ではオリンピックは開催されなかった。

今、世界はコロナ禍の真只中にある。今年の開催国である日本では緊急事態宣言とまん防の適用地域が漸次拡大している。三密回避、飲食店の時短営業、旅行外出の自粛、イベントの縮小・中止と今は戦時中かなと思わされる。銃後の病院は機能不全に陥りかけ、医療崩壊が叫ばれてから早一年を過ぎようとしている。このような状況のも下、政府は「国民の生命の安全」を担保せず「国威発揚」に拘る必要があるのだろうか。

行政の組織は一度決めたことを簡単に翻して変更することが難しいようだ。判っていても変えられない。あれ程敗れ続けて絶望的な状況に追い詰められても先の戦争を止めることはなかった。昭和天皇の御聖断のおかげでやっと終戦を迎えることができたのである。

今は鬼籍に入っている叔父は、かつて戦時中に現役兵としてインパール作戦に参加した際の経験談をいつも聞かせてくれた。叔父の中隊二百数十名の中、無事生還できたのは二十数名であったという。この作戦も敗戦濃厚な時期に「国威発揚」の目的で奇を衒う作戦を立案し無理矢理実施した軍司令官の責は重い。不幸なのはその作戦が頓挫したにも拘らず意地でも継続して自己の非を認めず現場の師団長に責任を押し付け、最終的には戦死者を数万人にまで増加させたことである。

観客のいない試合競技とは、お酒の無い居酒屋、盛り上がりの無い結婚式みたいなものか。それが「平和の祭典」オリンピックにふさわしい姿とは思えない。インパール作戦のように、やると決めたから仕方がないという理由や「国威発揚」のためにはやるしかない、という自殺行為は国民を不幸にするか否かの基準で指揮官には御判断頂きたい。

44.航海の評価

2021年1月25日

世界中がコロナ禍の中、謹んで新春の祝詞を申し上げます。昨年はグループ創業60周年で始まり何だこれはと思ったら緊急事態宣言が発出され戦時下のような街を経験し、やや落ち着きを取り戻したかなと思ったら年末にはGO TOに伴って観光・飲食店は真暗闇。咫尺を弁ぜず。感染リスク・経済の破綻・医療崩壊とマスコミも不安ばかりを搔き立てる今日この頃。

父の時代の創業期、フジコ丸はモーターボートであった。小回りは効くが大きな風波に耐えることもできず、常に不安と隣合わせのその日暮らし。何とか踏ん張って中型船に乗り換えてもオイルショック、バブル崩壊と資金繰りには窮々としたことだろう。大海原に出航する以上、天候と船の調子が生死に関わる。そんな中で数少ない船員が各々自己主張ばかりし、父の批判を延々としていたなら現在のフジコ丸は存在できただろうか。今があるのは船長と船員の価値観の統一と信頼関係があってこそなのである。

最近、知事・野党・専門家・事業者・医師会・国民・マスコミが、それぞれの立場で為政者の政策や判断を分析し肯定批判しているので情報が混沌としてより不安にならざるを得ない。自分に過剰な自信がある人達が人のあげ足を取って批判を繰り返すことでコロナ禍は収まるのだろうか。

往々にして自己評価の高い人達は、己の立ち位置を勝手に嵩上げして、自己の価値観を絶対化し、さも正義のように声高に言い張る。絶対だから他の意見や価値観を否定し受け入れることはない。本来、評価とは他者が行うものであって自分が都合良く行うものではない。まあ人が評価してくれないから自分でするしかないのかもしれない。この輩が人を評価するのが大好きなのである。その立場にないのに他人の毀誉を一生懸命に語る。そもそも人や政策の評価は後日、歴史となって評価されるものだと思う。

我々は日本丸に乗船して目的地に向かって出航しているのだから、乗員として不満と批判で騒ぎ立てるだけの輩とならず、目的地に着いてからゆっくりと航海を検証し、航海そのものを評価すればよい。フジコ丸はいかなる環境変化にも適合しながら、タンカーの如く悠然と航海を続けて行きたい。そして将来、その航海の評価を厳しく下してもらえればと腹を括っている。

43.足元を見る

2020年9月25日

時は今、新春以来のコロナ禍によって日本中、いや世界中の人々が不安を煽られ、常識や生活の様式を変えざるを得ない状況に追い詰められている。しかし、これは既存の価値観において追い詰められていると感じるのであって、本来の人間らしい環境に戻して、より人間らしく生活できる世の中に向かっていると肯定的に考えたい。満員電車、航空機、外食店など、経済合理性を追求した「詰め込み」は誰しもが、人間らしくない不愉快さを感じていたと思う。

そのコロナ禍の中で、ラグビーの練習もできず、足腰の衰えを危惧しつつ、毎日家内とお互いの足元を見つめて健康の為に縄跳びのノルマを消化していた。

そんな折、「先義後利」を頂戴した大学の恩師より先義後利の原典を調べて見つけたとの事でお手紙を頂いた。

「先義後利」は筍子の栄辱編にあり、先義而後利者栄、先利而後義者辱、栄者常通、辱者常窮、通者常制人、辱者常剃於人、是栄辱之大分也。ということらしい。こういう事を何十年経っても気にかけて教えて下さる教育者に感謝しかない。同じ教育者であっても利と自己中で、人の足元を見てつけ込むような輩もいる。それは世の中でやってはいけないことと教えるのが教育者ではないだろうか。

最近、隣国の医療界で医師達が、このコロナ禍の中、ストライキを決行した。さすが隣国、やることがエゲツ無い。人のことは関係ない、自分達の処遇の改善を求めて国民の犠牲を担保にストライキをやるのである。義の無い凌さを感じる。この医師達も人間として良き教育者に恵まれなかったのだろう。

「人の足元を見る」昔の駕籠かきが、旅人の足元の様子から疲れ具合を見て、それにつけ込み法外な料金を要求したことに語源がある。何にしても人が困っている時、相手の弱みにつけ込んで自己の利益や立場を求める姿勢や生き方をする相手とは付き合いたくないものだ。

また給付金詐欺が注目されている。「俺頭いいからバレないかも」世に先義後利は廃れてしまったのかな。天網恢恢疎にして漏らさず。互いに足元を見つめた縄跳びをやり過ぎて足首を痛めてしまった。また足元を掬われた。自業自得。

42.80年のボレロ

2020年3月2日

1940年東京オリンピック。幻のオリンピックである。
当時のアジアで、数少ない独立国の日本で開催されることは、欧米以外の国では初めてのことであり、非白人国開催の嚆矢となるはずであった。国威としては五大国の一つであり、国際連盟の常任理事国。実戦経験豊富で強大な陸海軍を保有し、台湾、朝鮮半島を領有して、大陸、南洋諸島にも権益を保有していた時代である。皇紀2600年の記念事業として、ヘルシンキと競い、やっとの思いでつかみ取ったオリンピックの開催権を、1938年に日本政府は返上したのである。

1938年の時点では、盧溝橋に始まる日中戦争は継続中だが、まだ第二次世界大戦は始まってはいない。しかし、一触即発の国際情勢の中でのオリンピック開催への疑問や、中国大陸での利権が対立する米英の反対、鉄鋼や人員確保の観点から軍部の反発、その後押しをしていた新聞各社の報道縮小などにより、時の政府は開催権返上を閣議決定したのである。

新型コロナの猛威が世界を席巻している今現在を、当時と比較して考えてみる。
現在の日本は、世界第3位の経済大国で、一人当たりのGDPこそG7のビリだが、国連の非常任理事国として、経済に限らず世界中に協力と貢献を尽くしている国である。
バブル崩壊後の失われた20年、リーマンショック、東日本大震災を経て、令和を迎えての56年ぶりの東京オリンピックをもって復興と観光立国化を目指している。

関東大震災、金融恐慌ときての世界恐慌の影響から政治不信が高まり226事件。以来、軍部の独走による国策が優先される。その後1938年を迎えるのである。阪神淡路大震災、金融危機ときての政権交代。民主党への政治不信から圧倒的な自公連立政権下の安倍内閣へとまたもや独走が許される環境が整っている。やはり歴史は繰り返されるのだろうか。

そんな中、新型コロナに攻められている。四面海なる日本は、鎖国の時代であれば防御もできたであろう。防げなければ観光立国も夢のまた夢。海外からは、中国、韓国、日本は同じアジアの同一地域と見られるため、極めて危険な地域という位置づけではないだろうか。今のイラクや北朝鮮に、不安もなく選手団を送り、観戦して観光など誰がするだろうか。観戦して感染、笑えない恐怖を抱えた状態でのオリンピックは不可能ではないかと思う。

この時期、さすがロンドン、漁夫の利を狙って代替地に名乗りをあげている。前回も満洲国がどうのと反対していたが、利害が対立すると必ず叩き、気に入らない裁定には辞任して抗議をする。しかし開催地の変更はまずありえないだろう。なぜなら、WHOがパンデミックに近づいているというこの現状を鑑みると、世界中どこで開催しようと感染のリスクは変わらない。そこが未感染の地であれば、そこの感染リスクが上がるだけである。だから現状では、開催地の変更はありえない。

次に、年度内の時期の変更だが、世界同時株安のように、新型コロナの感染が地球規模で同時に終息しない限り意味がない。日本やアジアだけで終息していても、他の地域が不完全ならば、再度感染を拡大させるだけだからである。日本の夏は、南半球の国では冬である。そこではおそらく新型コロナが猛威を奮っている可能性が高いだろう。よって時期の変更も難しい。

最後に残された可能性は、翌年への延期しかない。安倍総理は、何度か消費税増税を延期してきた経験があるから、安易に延期で収まるものくらいに考えているかもしれない。しかし、歴史的に中止はあっても翌年への延期はかつてないのだ。既にIOCを含め世界の国々は、日本での開催如何というより今年の開催自体を疑問視していると思われる。よって、今後ますます中止の方向へと圧力がかかってくることだろう。

日本の現状は、少子高齢化、社会保障費の増大、人不足、非正規社員の増加、老々介護などなどオリンピックどころではないと考えている人々が多数いて、当初見積から異常に膨らむオリンピックの予算を抑えてでも助けてもらいたいと思っているのではないだろうか。80年前も軍部の意見が強かっただけでなく、恐慌の後、民草の生活が立ち行かない状況だったのではと思われる。

結論、歴史は繰り返されていると考えれば、世界の情勢と日本の現状を鑑み、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、オリンピックの開催権を返上することを閣議決定するであろうと推察される。IOCには延期を懇願するも、欧米の圧力により黙殺されるだけだろう。残念だが今年は仕方がない。

 

41.存在の意義

2020年2月29日

巷では、毎日が新型コロナウィルスの感染の話題である。昨秋の台風による堤防決壊の如く、怒濤のように日本を世界を呑食しようとしているようだ。どこか堤防が脆弱だったのかもしれない。そんな中で感染に対処し頑張る「災害派遣医療チーム」には頭が下がる。自分たちの使命と「存在の意義」を充分に認識しているのだろうが、なかなかできることではないと思う。

福沢諭吉先生のお師匠にあたる適塾の蘭方医、緒方洪庵大先生は言われる「医者の存在意義は、他人のためにあり己のためではない。己を棄てて人を救うことだけを求めなさい」と。人のために身を危険にさらすことなど当たり前という教えである。
この強烈な「存在の意義」に基づいて(医者全員では無いが)使命を果たしているスタッフが不当ないじめや差別に遭っているという報道を観て、本当に日本のこと?と悲しくなった。感染の拡大と収束の瀬戸際の最前線に、身を挺して取り組んでいるスタッフに感謝とエールを贈る。自分のことだけを考える卑しい性根を否定する価値観を、この機会に日本に蔓延させなければ、人の心は荒んでしまうかもしれない。

この新型コロナだらけの新聞記事のなかで、なぜかこの時期、障害福祉サービスの不正受給が大きな紙面で取り上げられた。128,000カ所のサービス施設の中で、5年間に630件が処分を受け、26億円の不正受給が判明したという。背景には「もうかる」とうたう悪質コンサルタント会社に釣られ参入する事業者が増えていることがあるらしい。このような理念なき参入は、結果的に利用者を苦境に陥らせる原因の一つとなっている。

新規参入は、永年既得権のようにやってきた既存施設にとって不愉快なことであろうが、利用者にとってはサービスに競争原理が働く事で好ましい事でもある。ただそこに「存在の意義」や、自分のためだけではなく他人のためなのだという使命感、卑しい性根を否定する価値観の有無が必要ではないか。入所施設における利用者預金の横領を見るに、施設、事業者だけの問題ではなく、その職員の質や価値観の改善や向上が求められるのではないか。

悪質コンサルに関しては、何年も前から問題となっていると思う。そもそもコンサルがいないとやれない施設の存在が変である。「存在の意義」がない。だから簡単に儲からないを理由に潰して、多数の利用者を解雇してトンズラする。制度を拡大解釈して身内の看護師を悪用する、送迎員と指導員を混濁させて配置を偽るなど、身勝手な自己都合の卑しさには事例として事欠かないらしい。あるコンサルから「俺の言う通りやらないと潰れるぞ!」と言われ不安になった事業者が、そのコンサルと縁を切ってから事業がうまくいくようになったと喜んでいた事例もある。おそらく、素人に対して上から偉そうに言える立場とお金が欲しいだけなのだから中身はない。

何の実績もない悪質コンサルの迷言には、人としての基本理念や社会常識を強く胸に抱いて対抗するしかない。コンサルに頼らない気概を持って奮励努力し、粗にして野でも卑ではなくありたいものだ。そうでなければ自分のやっている事業や施設の「存在の意義」は無くなってしまう。悪質コンサルには「卑」の概念がない。それを重宝する事業者も所詮同類で、「使命感」「卑しさを否定する価値観」のいずれも持ち合わせてはいないだろう。だから「存在の意義」は無視されるのではないだろうか。

40.男子の本懐

2020年2月25日

今年2月、私どものグループは還暦である60年を迎えた。グループの中核であるフジ広告を両親が立ち上げて60年である。

60年前、時代は高度経済成長期の始まり、東京オリンピックへまっしぐらの時に、二十代前半で一文無しの父と母は2人でリヤカーを引いて看板屋を始めた。極貧の生活である。そんな中で私は産まれた。両親に必要とされて生まれてきたと勝手に決めている。私どもが瞑目して、この創業時の苦労を想像すると、不安で気が遠くなり滅入ってしまう。でもそこで挫けず、信念と気概を持ってやり抜いた結果で現在があるのではないかと思う。

今の私どもが口にする苦労とは、果たして当時の両親の苦労と比較して苦労と言えるのだろうか。二人ぼっちの最初は、誰も知らない会社、財産もお金もない、信用は全くない。無い無い尽くしから60年を経て、ある程度の信用と様々な財産を積み上げてくれたおかげで、私どもは基本的な苦労がないのである。ということは、両親を前にして苦労とは言えない。両親から観れば努力、頑張りに過ぎないのではないかと思う。

そんな創業時の苦労を鑑みると、その後のオイルショック、円高不況、バブル崩壊にリーマンショックと怒涛を乗り越えてきた不撓不屈の精神は、当たり前なのだ。
要は、私どもがその気概をうまく引継ぎ、承継出来ているかが問題である。苦労を楽しめているか、驕らず大した事はしていないと思えるか、先義後利か、世のため人のためになっているか、当たり前と思えればそれは苦労でも何でもないのである。

長年お世話になっている方々に、60年の節目にお立ち会い頂き開いた祝賀会にて、恥ずかしくなる程のお褒めの言葉を戴き恐縮している。めでたき席なので割引くとして、NPOの就労支援の取り組み、ラグビー精神に基づく組織のあり方、読書と人間形成について御言葉を戴いた。そもそもがこの節目を迎えることができているのは、ひとえにお世話になっている方々のおかげなのである。心から感謝しております。

今後も創業の気概を胸に、苦労を苦労と思わぬ精神を持って、息子たちも70年、100年と歴史を刻んでいってくれるんじゃないかと思っているが、私自身もう一度両親に必要とされ、産んでくれさえすればいくらでも役立つ覚悟でいる。リヤカーにも乗りますよ。それが私の「男子の本懐」

でも「もうきみには頼まない」と言われたらもっと頑張るかもしれない。そんな事を両親に言わせたくないから頑張るしかない。城山三郎の作品を思い出した。石坂泰三が大蔵大臣に言い放った言葉。若い頃、この本を読んで明治の男は凄いな、こんな人になりたいなとあこがれたものである。言われた大臣の立場になると、二度とそんな言葉は言わせないとなる。意地がありますから。平成や令和の人々はどうかな。見捨てられたと意気消沈かな。

祝賀会での写真がない。私のテーブルだけ一枚もない。知人に贈呈できない。60年の節目の写真記録がない。哀しくて仕方がないが記憶を大切にするしかない。配慮を欠いた想像力欠如への諦観。これも苦労かな。もうきみには頼まない、頼めない、何も言えない。信じて頼んだのは私ですから。これも「男子の本懐」

 

39.言い訳

2020年1月25日

新春を迎え緊張感を与えてくれる寒さからは程遠く、本当に春のような陽気が続いている。今年は五十六年振りの五輪の年である。昨年秋のラグビーワールドカップの熱気を継続しながらの国民的行事である五輪が開催される。だから日本は暖かいのだろうか。

生きている間に日本でラグビーのワールドカップが観られるとは思わなかった。ラグビーファンの誰しもがそう思っていたと思う。何が何でも観に行こう。経済合理性も何もかもかなぐり捨てて家内と二人、札幌・袋井へ行ってきた。イングランドとオーストラリアの出る試合。例の台風に痛い目に合わされながら自己満足を突き詰めてきた。夥しい白人に日本は再た占領されたのかなと勘違いしそうになる程に白人の街となっていた現実にやはり欧米人は侮れないと改めて感心したものである。

今日はラグビーの話を少しだけ。ノックオンという反則を耳にした事があると思うが、この反則だけはやろうと思ってやる反則ではない。野球のエラーと同類である。どちらも集中力が欠如したか、他に気を取られたときに起こると思う。起こそうと思っていないのに起きる、交通事故に近いかな。結果は相手ボールのスクラムで再開。いきなり攻守逆転、ピンチとなる。そのピンチを救うためには必殺のタックルしかないとノックオンプレーヤーは心に誓うのである。

必殺のタックルはトライの価値に相当すると言われている。またタックルはチームの信頼関係の基本なのである。だからタックルの下手な選手は他が良くても試合では役に立たない。自己犠牲と責任完遂の精神から生まれる信頼関係が築けない者はプレーヤーとして認められない世界なのである。

日本代表のインタビューを聞いていて涙が出た。マスコミはヒーローインタビューのつもりで勇ましい言葉を期待しているのだろうが、選手は「チームの仲間のおかげ」としか言わない。個人の手柄意識など皆無。自己顕示欲などカケラも無い。やはりこの価値観が主流であるラグビーをやっていて良かった。自己評価が高すぎて、自分は利口な人間なんだと示さないと自己顕示欲が満たされないで、自分を重要人物のように勘違いしている人もいる。この手の人間はラグビー精神から最も離れて存在し、ワンフォアオールが全く無く、オールフォアワンのみだから許容範囲を超える大きなリスクを犯してしまう。単に「先生」とか「すごいですね」と言われることが嬉しいのかな。自尊心があっても勘違いがないとラブレターまがいを書いて気持ちを弄んで施設へ引止めたりはしないだろう。

そしてラグビー選手はレフリーに文句を言わないし言い訳もしない。言い訳をするのは口先で誤魔化せると相手をバカにしているからだと思う。見苦しい言い訳をしている人を見ていると毎日が障害物競走のような世の中において、自分以外は馬鹿と思っているのかなと邪推してしまう。

 

38.性根の源

2019年7月25日

この春、十年間さなえの施設に通所していた利用者の方が亡くなった。元気の固まりのような方で、真面目な仕事のできる優秀な方であった。入所先から毎日、自転車での通勤であったが、通勤途中での急性肺炎が原因である。親御さんの心中を察するにいたたまれない。

その悲しい気持ちに更に塩を塗り込むような事件が発生した。故人の入所する先の職員が、死後、故人の給料が入金されている通帳から現金を引き出し、窃盗で逮捕されたのである。

この人間は誰が考えても性根が腐っている。障がい者が日々働いて得た給料を「バレないかな?」と迷ったであろうけれど勇気を出して横領したのだから。

世の中、滅多に無い事は大きなニュースになる。人が熊に殺されたり、公務員が詐欺をしたら何度も繰り返し報道される。職員が利用者の金銭を横領して逮捕されるということは、福祉業界全体の信用が問われるような大問題であるにも拘らず、小さな日常的な軽犯罪程度に扱われているのである。残念だけどそれはもしかしたら、日常的に普通にある事ですからと、世間やマスコミに思われているからかもしれない。

私の知る限り、障がい者をたぶらかそうが、あばらを殴って骨折させようが、タダだからと言って救急車を何度呼ぼうとも誰も逮捕されていない。注意勧告をしても繰り返しUSBで企業データを盗む輩がかつていたが、盗んだ記録が全て残っているのにどうするつもりなのだろうと皆で心配する。

おそらく表面的には愛想が良く善人を装っているが、自分が一番優れていると密かに思っているので相手をバカにし、実際の心の中は真逆で冷酷で性質が悪いがゆえ人のやらない事をやれるのではないか。何にしてもこの種の悪人は得てして何らかのコンプレックスを持つ人が多く、そのコンプレックスを克服できない人がこのような卑屈な性格になるのではないか。

誰しも性根の腐った人間の多い業界に身を置きたいとは思わないし、腐った人間が自然淘汰される健全な業界であって欲しいと願っている。ご冥福をお祈り申し上げます。

 

(この文章の掲載に際してはご遺族の了解を頂いています。)

 

37.反面教師

2019年2月25日

平成最後の新年が明けた。「災」の年が終わり新元号を戴く今年は「福・喜・楽」が次々と巡って来る年であってほしいと思う。

昨年秋、三十年振りに富士山に登った。職員の帰省に合わせて懐しの河口湖から、最も好きな富士を眺望。須走口や御殿場口からの富士の山影が一番と言う静岡県人には悪いが、やはり河口湖側からが最高である。天気も快晴で、常晴人を自称する同行人も面目躍如。鹿とも遭遇しながら霊峰富士を満喫した。これを人々に伝えるためには百言を尽くすよりも画像に限るので写真に撮るしかない。

写真・カメラの無い時代、景色や風景・人物を視覚的に記録するには画家にたのんで絵画として残すしか方法が無かった。しかし、それは画像としては完全なものではなく、画家の技術面や依頼主の願望が反映されていると思う。それで美術は成り立っているのであって、完全な証拠的画像を求めているのでもない。誰かの言葉に「完全なものなど世の中には存在せず、不完全な状態をより完全に近づける努力を無限に続けることが大切」みたいな内容があったように思う。

音楽を考えてみよう。「メロディー」にはカタチが無い。カタチが無いメロディーを五線譜は正確に可視化してくれる。演奏家の技術はさておき、メロディーは正確に可視化されており、曲の記録としてはほぼ完全なカタチとして残されている。

企業の場合はどうか。企業は株主・銀行・徴税機関に対して、活動の記録を細部に到るまで記録、報告し、説明責任を果たさなくてはならない。この場合、五線譜に代わるものが「簿記」ではないだろうか。簿記は「儲け」というつかみどころのないものを可視化する技術であると思う。

そして福祉の世界はいかがなものか。「活動の記録」、個別ではなく総合的な評価が正確に可視化される「簿記」的な原則や「五線譜」が現在は存在しない。それ故に制度の悪用や拡大解釈が横行し、悪質コンサルが業として存在するのである。この業界にも世界評準である「簿記」的、「五線譜」的な原則・制度が早急に必要と思われる。

「さなえは福祉ではない」とよく言われる。確かに完全な福祉には到っていないので不完全な福祉をやっていることになる。しかし、完全な福祉など世に存在しないと思うので、永遠に不完全な福祉施設ということにしておく。自分がレベルの高い人間だと思い込んでいるから人を評価し見下すのだろうか。往々にして自分の利益のために意図的に悪意のある嘘や噂話を「君だけには」と特別感を持たせて拡める。やさしくアドバイスし、実際は自分の利益へ誘導するために善意の第三者を装って近寄って来る。このような人は悪性のウィルスに感染したんだと「反面教師」として考察し自分の人生のプラスにするしかない。今後、昨年以上の福祉評価の可視化の原則がより進化することを期待しつつ、反面教師に感謝する。

36.歴史を正す

2018年10月1日

10年前、「松山では、福祉業界が誰もA型施設をやらないから、騙されたと思ってやってみないか。企業がやるに限ると思う」そう言われて岡部と2人、何の事やらさっぱりわからない中で、障害者自立支援法とはなんぞや、何で福祉業界はA型をやらないのだろう、行政に必要とされるのならやるべきか、運営法人は何が最適か、前後左右上下東西南北、全く知識がない状態で途方に暮れたものである。

その当時、フジリネンとフジ広告で30人程の障害者雇用をしており、その実績も20年を超えていた。個人的にも「親を大切にする子供を育てる会」や「親を安心して死なせる会」に参加していたので、それらを纏めてやれるNPOを創ろう、名前は「さなえ」最初は親を安心して死なせるために「オアシス」。
当初から、企業の絡んだ新規参入だから風当たりは強いと予想して、人の嫌がるA型を中心にやろう、辺鄙な郊外ではなく松山の中心地でやろう、送迎はしない、一般就労に力を入れるなど、今も継続している基本方針は設立時に決めた事である。

そんな「さなえ」お嬢さんもやっと10歳、小学4年生になった。父「フジリネン」35歳、祖父「フジ広告」58歳の庇護の下、すくすく成長している。弟の「まもる」君も1歳になり、彼も逞しく育てるしかない。

どんな法人も、誰か個人の能力や力量で成り立つものではない。俺がと思えるのはうぬぼれ、勘違い人間だけである。「俺が作った、俺が大きくした、俺がいないと大変、俺は1億円引っ張った」まず嘘である。これが言える人は、よほど自分に自信がないので自分を大きく見せたいのか、根本的な勘違いをしている人である。凄い人と言われたいだけの薄っぺらで、恥ずかしいとか情けないという恥の概念が欠如した人なら仕方がない、バレても認めなければいいのだから。現実としてさなえは、グループの総合力と関わる職員の努力で成り立ち、多数の法人や個人の御支援のおかげでここまで成長してきたのである。

「さなえは実質的経営者が辞めて大変らしい」最近よく耳にする。てっきり私が実質的経営者だと思っていたので、いったい何の事なのか全く意味がわからない。そもそも設立以来、経営に携わっている人間は誰も辞めていないのだ。最近、旧悪が徐々に改善されて、スタッフも充実し、組織として機能し始めており、どの部署もスムーズに事が進んでいる。職員、利用者の絆が深まり、風通しが良くなり、無責任で幼稚な情報漏洩や変な臭いのクレームも全くなくなった。

経営者とは人、金、物を「権限」を持って舵取りをする人である。人事権、決裁権を持たず、資金調達能力のない経営者は経営者ではない。設立時に、さなえの存在意義は歴史が証明すると啖呵を切ったが、10年を迎え、福祉の専門家たちの歴史認識を少し正す必要がある。というのも、耳にする話と現実が大きく乖離しているのだ。騙そうとしているのか意図的に勘違いをさせているのか、いずれにしても面白いことが多い。

グループの経営陣はこの10年間、グループ全体で約40億円の資産購入や設備投資を行なってきたが、その中の13億円強はNPO関連への投資である。その協力的な投資があってこそ今までのNPOの事業展開がある。そしてその展開に従って、現場サイドは日々不断の努力を積み重ねている。チームの力で今があるのであって、自惚れた特定の個人の力によるものではない。特定の個人の自惚れと傲慢さ、不誠実さは単に組織にとっての弊害でしかなかったと思う。

今の「さなえ」を見て、感じて、「真実」を知って頂ければ幸いに思います。
次の10年、更なる歴史を刻みつつ、歴史は正します。

35.アメフトとラグビー

2018年6月6日

ブランドとしては不適格な事が露呈した某大学と、その大学の反社会的組織並のアメフト部の不埒なありようが1ヶ月近く世間を賑わしている。そもそも、その大学はあの監督を常務理事に任命し、あの広報担当をあの最後のチャンスに敢えて抜擢する感性と価値観が基本文化の大学なのだから、あの人間性でコーチが務まり奴隷根性の鉄砲玉のような選手が育つのは仕方がない。

そんな中で被害選手の試合への復帰のニュースで気が和み、アメフト協会が世論が納得できるかたちで電光石火の厳然たる処分を下したことがアメフト界の信用信頼を取り戻したと思う。この事は、一年以上やっても埒があかない国税庁長官や森友問題がいかに国民の不信をかい信頼を失うかという危機感をアメフト協会は認識できているからこそ対応できたと思う。

この騒動の中で最も誤解と迷惑を被ったのはラグビー界である。
フィールド内での肉弾戦と似たようなボールの形が災いしたと思われる。しかし両者は歴史、文化、ルール、価値観、面白さまで全く別物である。海に住んでいるからと言ってもイルカは哺乳類で魚や蟹とは根本が違う。それくらいの違いがあるのを認識されていないのはラグビー界の怠慢かもしれないし、その結果がこの被害である。2019年に日本でラグビーW杯があるというのに。

ここでは価値観の違いを中心に比較してみよう。
アメフトはラグビーに似ていると思われているが、実は同じようにアメリカで生まれた野球に似た競技である。スリーアウトチェンジとフォーダウンチェンジで共に攻守が交代し、全てがセットプレーから始まり毎回がサインプレーで帰結する。試合中に一球、一プレー毎にベンチや監督から緻密な指示を受け、その指示を従順に確実にこなす選手が良いプレーヤーと評価される競技である。ラグビーの場合、試合中に監督がプレー毎にいちいち指示することは出来ないから監督は観客席にいる。試合はフィールドの選手に委ねられているのだ。指示待ち人間と判断力を育んだ人間。造る人間の種類が違いすぎると思う。

アメフトの場合、あのラフプレーの後に2回も同様なラフプレーをやらないと退場させてもらえない。相手にはペナルティで相殺というドライさがあるのだろうか。

ラグビーだとおそらく即退場処分である。ラグビーは紳士のスポーツである。勝つためには手段を選ばないという文化を否定する。そもそも指導者は、能力が高くてもラフプレーの多い選手やマナーの悪い選手を基本的には起用しない。そこを指導して人間を成長させることが重要と考える文化なのだ。

指導者や教育者が、社会のルールや規範よりも己の思いや欲望を優先させるという傲慢さは、いくら無知とはいえ、悪びれる様子の無さや選手に責任転嫁する姿勢も相まって多くの良識ある人々を憤らせたと思う。あの価値観の人に権限やポストを与えたことが組織の失敗であったことは、今後の改革を待つまでもなく明白である。

以前、弊社に毎年交通事故を起こす社員がいた。そして必ず言い訳は91で相手が悪いと主張する。しかし最終結果はいつも真逆の19で本人の過失が大きいと判断された。その結果、保険料はうなぎのぼり。お勉強ができてもこれではいけない。まさにあの監督と同じ価値観で、反省が全く無く、世間のルールよりも己のルールが優先する傲慢人である。このような人間に権限やポストを与える組織は、かの大学のような評価を受けるしかないと思う。でもあの目の監督の部下なら許されて重宝されるかもしれない。

ラグビーは感情を自己管理できる理性と謙虚さを身に付けた人間が、お互いにルールを尊重してぶつかり合う紳士のスポーツである。そして判断は全て自己責任です。

34.ブランド

2018年6月6日

ブランドという言葉からまず連想するのは、高級ブランドという高価な貴金属、宝飾品、バッグ、衣服などの身につけるものではないだろうか。その物本来の価値にブランドによる付加価値で一般の価格よりもかなり高い価格で販売され、購入者はそのブランド名と価格に満足して購入している。ということは、その物の価値よりもブランド名の信用と信頼で購入者は意思決定していることになる。

ブランドとは昔、牧場の家畜に所有者を明確にするために名前やマークを焼印することに由来する。同時にウチのは他とは違いますよという差別化。差別化と独自性で良い馬、美味しい牛を継続して提供してきた信用信頼がその牧場のブランド名を築き上げてきたと思う。

現在では、ユニクロブランドとかトヨタブランドなど高級とは言えないものから、電機メーカーから学校までさまざまな分野で普通に使われている。しかしながら、このブランドが付けられるのはそれなりの期間の信用と信頼が継続してこそである。

歴史ある大学は、日本の社会に多少はあれ有為な人材を輩出してきたと思う。そうでなければその大学の存在意義がないし歴史を積み重ねることなど無理である。これは諸先輩方の不断の努力によって勝ち得た信用と信頼が基本となっている。だからこそ後輩、新入生は安心して後に続くことができるのだ。この信用と信頼に裏打ちされた安心感が理解できない輩がブランドを語ると大変な事になる。

ブランドは落ちないと迷言された某大学の広報様は正直なのかもしれない。自分がお世話になっている大学がブランドに値しないから落ちようがないという意味か、ブランドであるとしても今が奈落の底だからこれ以上は落ちない、のどちらかの意味としか受け取れないことを断言した。

もしかしたら親分、幹部、鉄砲玉の関係でトカゲの尻尾切りを得意とする反社会的組織のブランドに鞍替えするなら理解できる。でも、その世界では鉄砲玉は間違っても裏切って記者会見はしない。鞍替えなら中途半端ながら学生や卒業生が履歴書の記入の際に学歴としてではなく賞罰欄に記入するべきブランドとなってしまう。

今はもう無関係だがあの監督とよく似た顔で目がソックリの人を知っている。やはり人を陥れることが平気で自己保身しか考えていない。あんな目の人はやる事が似てくるのかなぁと友人に話すと、一言、あんな事ばかりしている人はあんな目になってくるのです、でした。傲慢にはなりたくないものだ。

33.厄払い

2018年4月25日

この冬の寒さは温室慣れ合いの西日本人にとってかなり厳しかったと思う。

三十何年か振りの厳冬は何度も雪や氷を子ども達にプレゼントし、大人には降雪地帯の人々への尊敬と自己の限界を意識させてくれた。

その厳冬の中を風雪に耐えて耐え抜いてどうだと叫ぶように我が家の枝垂れ梅が一気に咲き誇っている。毎年の当り前なのだが、いつも元気を分けてもらい御苦労様と感謝している。

梅の時期までの恒例として、毎年厄払いに行く事にしている。西宮の門戸厄神で、関西学院大学のすぐ下の斜面に鎮座されており厄年の社員の厄払い祈願をして御札を持ち帰り一年の注意を促すことにしている。こんな事を十五年も続けているから疫病神がどんどん減って貧乏神も困っていなくなっているはずだ。

タグラグビーの練習をユーチューブでやったと自慢していた人もいたが、私も同様に疫病神、貧乏神の研究をしてみた。その特徴としては人の不幸や人が困るのを見ることが大好きらしい。そして品性を欠く噂話を広めるのが趣味。自分の無知を棚に上げて根拠なく人を見下す。人に感謝をしない。感謝の概念の欠如。自分の失敗を反省することがないので全て人のせいにする。人を見下しているので人を褒めることがない。自分を特別な存在と思っているので自己顕示欲がやたらと強く、嫉妬深い。忙しそうに振る舞って人を寄せ付けず自己陶酔にふけっている。興味のない事は常に面倒臭いと思うくせに、やたら細かい事にこだわって執着して人を落とし入れる。

いかがでしょう。簡単にまとめるとこのようになるが、この手の輩にはなるべく関わらず近寄りたくないものだ。犬も気絶するような悪臭を振り撒き人を不快にさせたり、貧乏ゆすりや立ち喰い歩き喰いも特徴らしいので注意。

私は長年の門戸厄神の御利益のおかげなのか昨年から特に様々な「つき」を感じる。我々にチャンスを与え、恩恵に賜り楽しい思いにして下さり、そして幸せを実感させて頂き有難うございます。大好きです。心からそう思えるのは、以前はもしかしたら、やはり疫病神と貧乏神が近くにいたから今になって認識できるのかもしれない。

悪魔は常に笑い、天使はいつも怒っている。悪魔は本性を知られたくないから笑って腹を見せない。悪代官は「越後屋、お主も悪よのう。ハッハッハッ」と笑っている。反対に天使は正義を振りかざし「あの野郎、許せねえ」「成敗してやる」と腹を立てている。

残された人生をえびす顔にだまされないように注意したいものだ。

32.忘れない

2017年12月15日

ロケットマンはおもしろい。歴史上、自国の危急存亡の秋を幾万の人的損害を顧みることなく救ってくれた恩人の意見を無視して国際社会に楽しげに不安を撒き散らしている。
自分の力を過信して、身勝手な正義を振りかざして、まるで戦前の高慢な日本を見ているようだ。その高慢自己中日本はどうなったか。「わかり易い世界史」を真剣に勉強し、賢者は歴史に学ぶということを知るべきである。

どんな組織にも、いい加減な性格からか、能力不足からか、愚劣な判断をして問題を大きくし、その解決をあいまいで無責任な言葉でやり過ごし、さらに問題を長期化させ修復不可能にさせる輩は存在する。空手形で相手をまるめ込むものだからその嘘が発覚すると言い訳で自己を正当化するか、言った言わないの不毛な議論を繰り返し相手がアホらしくなって黙るのを待つしかなくなる。
勲章をベタベタ付けた人が大勢出てくるが、国際社会は大人を演じなければならないから「対話の為に」少々我慢はできるが、個人のレベルの関係では幼稚なサギ師でしかない。にも拘わらず本人は能力があって頭が良いと思っているから始末が悪い。能力・頭ではなく、人としての「価値観」「生きざま」の問題なのである。

先日、父が師と仰ぐ大経営者の奥様が、他界された。私が子供の時分から現在に至るまで耳にタコができるほどに何度も何度も父から「この人のおかげで現在の我々はある事を忘れるな」と言い聞かされてきた。父は謙虚に御指導を受け、危機を乗り越えさせてもらったのである。のどもと過ぎれば、ではなく、その時の恩義を終生忘れずに生きる父の「生きざま」は尊敬でき共感する。

続いて高知へ葬儀。リネンサプライ業を始めた時に大恩のある方の葬儀である。
昔の事ではあるが、その時代、新規参入の事業者に対してはどの機械メーカーも資材屋も品物を販売してくれることはなかった。既存の事業者を揣摩忖度してのことではあるけれど悲しい現実である。そんな時に手を差し伸べてくださったのが鬼籍に入られた高知の会長であった。当社の代わりに購入を引き受けて転売してくれたのである。この恩義を忘れては絶対にいけない。

お通夜の後、会長のお嬢さんとお孫さんに「弊社の今があるのは会長のおかげなのです」とお伝えできたとき、私も父と同じ「価値観」と「生きざま」をちょっと共有できたような気がして嬉しく思えたものである。
これからも不売の現実と恩義を忘れることは決してないように生きていこうと思う。

31.先義後利

2017年7月25日

私の大学の恩師に、実家の事業を手伝う旨の報告をした際「何をやるにしても『先義後利』を忘れないように」と言われた。人として当然あるべき道義を優先し、利益を後回しにするという意味である。もう30年程経ったが、その間、いつもこの教えを大切にしてきて今日があると思う。

昨年末、久しぶりに陰険な人間性を持ち合わせた方々と関わることが多くあった。人への迷惑を何とも思わず、人への最大限のダメージを与えることを予定し、へらへら笑いながら「楽しませてもらった」と同じ迷言を置き土産にしてくれた。結果は何の支障もなく「人間性の否定」が残っただけではあるが、その心根の嫌らしさ、陰険さを考えるに信用される人達ではないだろうなと思ってしまう。

子供の頃、親や先生に「嘘をつくな」「ばれなければ良いと思うな」「約束は守れ。それが信用だ」と何度も聞かされてきた。ハイハイと思っていたが、この年になると本当に親や先生は世の中の基本を教えてくれていたのだなと感謝できるものである。しかし、最近の先生は何か違う人が多い。自殺問題では率先して嘘八百の会見をし、ロリコンでワイセツ、スカート内の盗撮などなど自己中な輩が多くはないだろうか。だから昔と違って、尊敬される対象からまずは疑ってかかる対象となってしまったのだ。見守り隊の隊長が少女を誘拐して自己満足で殺す時代だから仕方がないのかもしれない。

今年、警察署内で数千万円が盗難に遭い、同じ銀行の同期二人が、数十万の使い込み事件と女性宅ベランダ侵入事件を起こしている。
この銀行の責任ではないが、何かがおかしい。銀行の文化体質なのか、採用者のミスなのかもしれないが「恥の概念」が欠如している人間、本能欲望の権化のような人間を採用してしまった根本的な失敗であることは間違いない。自己満足と嘘八百に生きる人達には「先利後利」の「我利我利」な人生となってしまうことだろう。

子供には、人を騙して楽しむような生き方、「恥」の概念が欠如しているために世間の常識を超えてしまう生き方を望まない。そして、親とか先生という立場の人はそれを教育、指導するのが義務である。間違っても自分が「恥」欠如人間にはなってはならないと思う。不義、不埒はお天道様は見ているし、何より世間は違和感を持つものである。

これからは私も「私なりに楽しませてもらおう」と固く決意している。

30.自立の原点

2017年7月25日

NPO法人さなえを設立し満9年を迎えようとしている。この間、「自立と共生の社会を目指して」数百人もの利用者の方達と関わり、様々な方々の御助力もあって54名の一般就労のお手伝いができた。現在「経済的自立」を目指すA型施設で約160名、「社会的自立」を主眼とするB型施設で約120名、就労移行支援施設で10名が頑張っている。

本来、自分のことは自分でできるという「生活的自立」ができている障がい者が、将来において「経済的自立」を達成するために就労継続支援施設を利用しているはずである。そのためには、社会一般の常識に適合できる「社会的自立」は不可欠である。当たり前に挨拶ができ、公共交通機関を利用し、買物、お金の取り扱いに支障がない「社会的自立」である。この「社会的自立」なしで「経済的自立」を達成することは難しい。その後押しのためにさなえではB型利用者であれ、通勤支援手当を支給はしても送迎はしないことにしている。親の心配は測り知れないものがあるが、我が子がちゃんと自分で通勤できる成長を喜んで頂き、将来をより安心して頂けると勝手に思っている。

世の中には「費用をかけて長時間の通勤がかわいそう」「送迎がある方が安心」などと、子離れができていない親や、成長よりも自分の不安の払拭による目先の満足を求める親、学校という、一般社会においては特別な環境の手厚さが身に染み付いていて当たり前と思っている親、子供の意思や人格など関係なく自己満足中心の親が少なからず存在する。自分の方が子供より先に死ぬのに、死した後も子供の面倒を看るのだろうか。こんな親からの自立が本来は最優先であると思う。送迎を売りにしている事業所があるが、私も身体障がい者や重度の障がいがあって自己通勤不可能な利用者の送迎を否定するものではない。身体障がい者を受け入れないのに施設の手厚さを強調するために送迎をすること、これは利用者を園児扱いし、成長を妨げるだけで、根本は利用者を集めたいだけの事業所都合ではないだろうか。

そうは言いながら今度は別法人を設立して完全送迎付きの事業所を設立しようと思っている。自力の通所が難しい人の一助となり、その人の能力を業務で発揮して頂くためにという大義名分を掲げて。

29.無くさない

2017年7月25日

今年の花見は久しぶりに自宅の縁側で家内と一緒に酒を酌み交わした。万朶の桜を眺めながら愛犬二匹と会話する。時の流れが止まったかのような空間で、昨年来の幸福をかみしめた花見であった。花に清香有り。そう言えば今年になってからネズミの死骸のような匂いのクレームが無くなって喜んでいる。

そんな中、柵内で放し飼いしていた愚犬が脱走。散歩中のお隣のチワワを鬼籍へと送り出してしまった。それは脱走、殺害という飼い主への重大な裏切りである。お隣に申し訳無さすぎて殺処分も考えたがここは冷静に我慢。「お前は明智光秀か、赤松満祐か、それとも荒木村重か」犬に怒鳴ったところで仕方なかろう。この人達は皆様悪名高き裏切り者で歴史に名を残している。例外なく末路は哀れなもので、共通点はイニシャルがM・A。自己目的のためには手段を選ばず平気で人を騙し裏切る。皆、その時までは信に足る能力の評価された人物であったにもかかわらずである。

この手は基本的に嘘をつくことが呼吸の如く普通にできる、自己の感情をコントロールできない、猟奇的な女子大生と同じく残虐性を持った嘘八百人間なのである。人を騙すことに躊躇の無い奴にとっては騙される人間が馬鹿で自分達こそが用意周到で利口なのだとでも思っているのだろうか。言い訳だけが立派な人と蔑まれているだけなのに。

幕末では人気の新選組がある。ファンには申し訳ないが、彼らは武士旗本になりたい自己中人間が、会津藩の権威を笠に京都で狼藉を働き、敵対勢力のみならず、気に入らない身内も抹殺する「輩」である。不幸にも彼らは若くして消滅してしまったから同情美化されているが、反社会的勢力と同じようなものである。「誠」の旗は何なのだろう。彼らは本人達の自己満足に対して「誠」を尽くしただけである。それは、尊皇をきれいごとで唱えるだけで世間への裏切りである。そんなことでは信用されないし殺人集団としての実力はあっても庶民の支持など受けようがないのである。世の中には言い訳では済まされない道理と当たり前のルールが厳然と存在するのだから。

あの日以来、愚犬は口輪をはめられ紐に繋がれて生活している。気の毒だが、信用を無くした結果だから仕方がない。

これからは私も楽しませてもらうことにしようと思う。

28.貧しい人

2016年8月15日

毎年あたり前に梅雨がやってくる。どれほど嫌いで憎んでいても仕方がない。適当に付き合いながら現実を受け入れていくしかない。雨は嫌い、でも降ってくれないと断水になる。我がままか、身勝手か、感情と現実に折り合いをつけるのはいつも難しい。
都民の感情に対して嘘を交えながら一生懸命言い訳をし、法的な解決での合法を主張する姿勢はみごとな程完璧な阿呆である。その見苦しさ、女々しさ、潔くない恰好悪さが本人のみ理解できないのだろうか。選挙で主権者に選ばれて知事になった事を忘れているのか、勝手に殿様になったと勘違いしているのか。心根と思考回路が貧しい人である。首都であれ地方であれ、町内会長の親玉として住民の幸せな生活を支援する立場の人間が自己都合の理屈でもって自分の満足を追求したことを疑われているにもかかわらず、その職を続けたいと言う。悲しすぎる。

「貧しい人とは何も無い人ではなく無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」これはウルグアイ第40代大統領ムヒカ氏の言葉である。彼は世界で最も貧しい大統領として知られているが、都知事はしばらくムヒカ氏に修業をお願いして、貧しくなくなってから再起して頂きたい。彼は公邸に住まず、自身の農場で生活し別荘も持っていない。公用車は30年前の普通車、収入の9割を寄付し、生活費は約10万円。スウィートルームに泊まらないと恥しいとは思わないし、公金をセコク使う事など逆に恥しいと普通の恥の概念をお持ちだと思う。

知事がリッパな公用車ではなく、軽四で公務を行っていたなら、どれほどの都民がカッコイイ知事だと思ったことだろう。なぜなら誰も公用車の必要性なんか認めてないのが庶民感情ですから。その感性の貧しい人が政治家になってはいけないと思う。しょせん、お金にルーズな人間はどこまでいっても仕事もルーズで、たいした仕事はできていないのが現実ですから。

27.島国ド根性

2016年8月15日

今年もお約束通り梅雨の時期がやってきた。梅雨は天の恵みではあるけれど、人の気持ちを忖度して斟酌することは無いようだ。何もこの時期に九州や熊本に集中させて恵みを降り撒かなくてもよいだろう。恵みであっても有難迷惑、天を呪いたくなる。

そんな時、英国のEU残留か離脱を問う国民投票があった。結果は御存知の通り離脱を国民は選択した。離脱派優勢の中、残留派の女性議員が殺害され、流れは残留派というのが一般的な認識であった為、反動は大きくなったと思う。そんな中で勝手に離脱派優勢を唱えていたのだが、その根拠は島国人の身勝手さと意地である。

先の大戦で英国は、ヒトラーに征服された欧州に屈することなく一国で抵抗を続けジョンブル魂を見せつけた。同じ島国の日本も世界を相手に最後まで一国で戦い続けた。その是非は別として英国も日本も島国で偏狭な島国根性を持っており、外からの圧力や移民が嫌いなのである。そして内と外を明確に区別・差別して自分達のアイデンティティーを守ろうとする。その上、それを守るためには少々の苦痛やデメリットを受け入れそれを乗りきろうとする意地を持っていると思われる。だからこそ大英帝国の地位を失ってもジョンブル魂は生きているし、戦後の日本の復興もあると思う。次に勝てば宜しいのだ。

人の判断ということを考える中で最近分ってきたことは、人が判断して行動するとき、その基準になっているものは、理屈や正論が基本となっている理性からではなく、好嫌、恐怖、不安といった感情が主流な基準となっているということだ。今回の件も、政治家や財界人は英国人の感情を甘く見ていたのではないだろうか。戦前の日本人の感情を甘く見ていたように。

これを書いている間に、陸上競技の五輪選考大会が行なわれていた。何と松山大学の高見澤さんが障害走の代表に内定した。本当におめでとう。四国は島国の中の島国ですから、リオに行かれましたら、島国ド根性を見せつけてやって下さい。

26.サッカーとラグビー

2016年4月25日

サッカーとラグビー。ともにフットボールとして括られるが、プレイヤーの精神性は対極にあるように思われる。これはプレイヤー全員がそうだと言っているのではない。ゲームを観戦していて対極に感じられる場面が多々あるのは現実である。

接触プレーの際、サッカー選手はなぜあれほどまでに痛がってレフリーアピールをするのであろう。接触はラグビーと比較してそれ程無いし、そんなにたいした衝突や激突も無いように見える。子供がバタバタ騒いでいるような痛がり方をラグビー場で見たことがない。そもそも、いくら相手の反則をアピールするためであっても、相手に自分が傷ついて弱っている姿を見せることに、はずかしいとか情けないという恥の感情は存在しないのだろうか。ラグビーの世界であれば、どれだけ痛くても「あなたのタックルなんて何てこと無いですよ」と涼しい顔をして普通に当然にプレーを続けないと、相手に「痛がってるな」と弱みを見せることになる。お互いに相手の闘争心を打ち砕き、戦意を喪失させるためにダメージを与え続けて、それをこらえて耐え忍んで相手を超越した側に勝利は舞い降りてくる世界がラグビーである。 その世界では、相手や同僚に「やられた」感とか「被害者」的なアピールなど、どれ程悲しくてもできない。

得点のシーンを思い出していただきたい。おそらく、サッカーの得点シーンを想像した方がほとんどではないだろうか。それ程にサッカーのゴール場面は印象に残るのである。ゴールを決めた選手は駆け廻り、天を仰ぎ、神に祈り、世の幸を一人占めしたかのように喜び狂う。チームメイトと一緒に幼稚園のお遊戯会のような踊りを披露したり、妙なダンスを踊ったりする。それを観て、サポーター以外の観客や観戦者はどう思っているのだろう。エースストライカーが注目されているスポーツもサッカーである。野球ならば個人の才能がほとんどではあるが、集団スポーツのサッカーでは個人の能力はその集団の他のメンバーによって生かされている。ゴールできるアシストや、その周辺の環境は他のメンバー以外には創出できないのである。その中でゴールを決めた人が喜び狂い、まわりもそれを許す文化。それがサッカーである。

ラグビーの試合において、トライをした選手が踊り狂っているのを観たことがありますか。ちょっとしたガッツポーズや満面の笑みを観ることはあっても、大道芸人のような振る舞いをすることはないと思う。なぜなら、これが文化・精神性の相違点なのだが、ラグビーの世界ではトライをした選手はエースストライカーではなく、味方が確保したボールを仲間で身を挺して引き継いだ結果、最後に持っていただけという価値観だからである。集団でお互いの仕事の責任を果たした結果のトライなのだから、トライした個人は他のメンバーに敬意を払って感謝すべきなのである。昔はガッツポーズなどしようものなら「勘違いするな」の一言で鉄拳をもらった人も多かったと思う。

今の日本の世相を考えると、サッカーの価値観が普通なのかもしれない。自分勝手な権利主張や、気に入らないことや結果の不平等を政府や他者の責任に押しつけるアピール精神。声高に文句を言えばマスコミは道理を崖から突き落とす。同じ国のメンバーなのだから、共に社会を構成している以上、お互いが感謝や敬意を払いながら我慢し合って、より良い関係と結果を求められるようになりたいですね。

25.野球とラグビー

2016年4月25日

今年もいよいよ桜が開花しようとしている。私にとって55回目の春が訪れて、万朶の桜が母にとって苦痛であっただろうかつての出産日に頑張れよと折れそうな気持ちを掬い上げてくれる。

昨年の春は母校の高校の野球部が何十年か振りに、21世紀枠にて甲子園出場を果した。生きている間に甲子園で応援できるとは、まして勝利して校歌を絶唱する事など夢のまた夢と思っていた同窓生も多く、何はともあれ甲子園に駆けつけたのである。そしてまさかの勝利。感動。絶叫。絶唱。しばし感動。あれっ?昔はいつも隣で練習していて硬球をぶつけられ乱闘騒ぎになる程、野球部は嫌いだったし、野球というスポーツ自体好きではなかったのにな、と古い記憶を呼び覚ましながら複雑な感情で感動していた。

ラグビーの話を人に説明する際、最初に必ず野球と対極のスポーツであると断言している。何が対極なのか。それは「監督」「選手」「審判」「歴史」の4点において明確に対極なのである。これからそれを説明するに不愉快な思いをされる方々も多いとは思うが、現実を受け入れていこうではないか。まず、野球の監督は試合中の絶対権力者である。ベンチ内で陣取り、一投一打に到るまで全てにサインを送り選手を将棋の駒のように動かしてゲームを進行させる。対してラグビーの監督は概ね観客席に陣取り、全てをキャプテンと選手の判断に委ねて練習の成果を見守る。次に野球の選手は常に監督の指示通りのプレーを求められ自分の意志で判断すればサインを無視したこととなり評価されない。それに対してラグビー選手は一々監督に指示されないから自己判断を中心として仲間との価値観を共有させながらプレーするしかないのである。そして審判に対する選手の立ち位置が根本的に違うのである。野球では審判のジャッジへの文句クレームは当たり前。不満な態度を露骨にしバットを折ったり、首をかしげたり、何様なのか、審判への尊厳は存在していない。これをラグビーでやれば即退場。 「エーッ?」 と言っただけで 「一言多い!ぺナルティ!」 そもそもキャプテン以外審判にお伺いはできない世界なのである。レフリーアピールなどしようものならやぶ蛇。後悔しか残らない。それ位、ラグビーの審判は神聖なのである。

この話を同級の明大野球部キャプテンとしていたら「歴史、発祥の差だよ」と教えてくれた。彼の話によると、そもそも野球はアメリカの刑務所の中で生まれたそうである。犯罪者に世の中にはルールがあることや、そのルールを守らせる訓練をするために野球を作ったというのだ。ルールを守らない人間を基本に作ったスポーツと守ることが義務で紳士であるというスポーツとの差なんだよと聞いて合点がいった。看守が管理し易い体制が野球のスタジアムなのかと考えさせられる。さぞかし看守は犯罪者にバットを持たせて不安だったのではないだろうか。だからマスクを審判はかぶっているのかな。

でも確かに野球型人間のほうが管理をし易いと考えている管理職は多いのかもしれない。

24.クイの無い判断

2015年12月15日

2015年のラグビーワールドカップが終わった。日本は予選リーグで3勝という予期せぬ善戦をしながら決勝トーナメントには進めなかった。まあ次回の日本大会でのお楽しみと心を躍らせながら今回の頑張りによるラグビーへの世間の注目度への貢献は並々ならないものである。

世界3位の実力を誇り優勝経験もあるあの強豪、南アフリカを相手に互角どころか勝ってしまった。ラグビー関係者はおろか、日本国中でこの勝利を予想した人は、選手たちには失礼ではあるが、誰もいなかったと思う。  奇跡に近い大金星。日露戦争の日本海海戦に匹敵する快挙だと思う。そんな幕下が横綱を倒したものだから、多くの国民がラグビー日本代表に期待し注目したのだと思う。

国歌斉唱の際、選手たちは感極まって涙を流し、過去のワールドカップの屈辱を晴らさんと忸怩たる思いで必勝を期し、試合に臨んだものと思う。その気概の最たるものが、終了間際の「スクラムの選択」である。3点ビハインドで得たペナルティ。五郎丸がキックを決めれば同点で試合終了、しかし引分け。その時キャプテン、リーチ・マイケルは監督の意向を無視してスクラムを選択した。トライを狙って逆転勝利を目指す判断をしたのである。私はこの時涙が出て止まらなかった。男である。引き分けで終わることが納得できなかった。仲間を信じて「クイの無い判断」をして勝利し日本人の誇りを示した。  その場面を今思い出しても胸が熱くなる。色々な国の人がいる日本代表だけれど、誰が何と言おうと、日本人の矜持を示してもらって嬉しかった。有難うございました。

そんな中、国内ではマンションのクイが問題になっている。高級マンションや学校等で頑丈な地盤にクイが届いていなかったり、地盤のデータが改ざんされて、施工されていて「建築」の基礎の部分に対して「信頼が失墜」している。何がおかしいのだろうか。「現場代理人」の責任のように話は進んでいるが、いったい誰が判断したのだろう。発注者・ゼネコン・調査会社・設計会社・施工者、どこかで、誰かが判断を下したのは間違いない。  こんな「クイの残る判断」をした人は不幸なものである。

23.原点回帰の底力

2015年12月15日

近年大学ラグビー界の雄とされている有名大学のラグビー部も、二十年程前には部員による不祥事・強姦事件があった。重大な犯罪事件を起こしたラグビー部はその後しばらくの間対抗戦での戦績も低迷した。バレなければ結果良し、人間性や品格も関係なし、勝つ事が全てだから人への迷惑はお構いなし、そんな学生を掻き集めていた時代だったかもしれない。本来は常識の無いラグビー馬鹿ばかり集めた大学の責任でもあるが、その後、大学と学生が根本的な価値観において変化したのであろう。何年もの間、そして現在に至るまで覇者である現実は原点回帰の底力を感じさせる。

建設業はクレーム産業であるという言葉は世間一般常識であるが、同時にその言葉自体が業界とそれに関わる人々を甘やかせてはいないだろうか。近年を振り返っても設計士による構造計算の改ざん事件、今はクイの問題が世間を騒がせている。そして傾いた物件のみを全棟建て直しで済ませ、同じ現場代理人が関わった物件を調査して対応するとしている。これはとても中途半端な対応に終止しているとしか思えない。

自動車業界に当てはめて考えてみる。一個の部品の不具合が判明しただけで、その部品と共通の部材が使われたものすべてを対象にして例外なくリコールを行う。だから、何万何十万台という台数のリコールが起こるのである。  そして、その交換作業はメーカーの責任において全てを行う。その原因が素材メーカーや鉄鋼メーカーの責任であったとしても、その現場管理者が責任追及されたり、世間への矢面に立つようなことはない。そんな事より、人の命や財産に対し危険性があるものは、限りなく危険な可能性を打ち消す努力をすることが当然であり義務である。だから自動車メーカーは危険性が判明した時点で、疑わしきを全て罰するのである。これが世に対するおわびであり反省である。だから信頼されるのである。  自動車メーカーは限り無くリコールを繰り返して次への進歩を生み出すことで世界への信用を勝ち取ってきた。おわびと反省を反復し常に原点に帰り、より安全で満足される車を作ってきた結果、現在があるのだ。

遠く建設業界を較ぶれば、ゼネコンは問題のクイ打ち業者に担当させた物件すべてをゼネコンの名誉にかけて建て直しをするべきだ。できれば業界の名誉にかけて関係したクイ打ち業者が扱ったすべててのクイを、「疑わしきは全てを罰する」という価値観において建て直さなければ信頼を得る事はない。「データを流用したけれど現状で問題ない」という甘えきった回答にはもはや当事者能力の微塵も見受けられない。  反省を原点回帰。人々に迷惑をかけた上、いらざる不安を世にまき散した罪を真摯に受けとめ本当の意味でのこの業界の底力を示すしか、いい加減な情ない業界というイメージは払拭できないかもしれない。

22.趣味と仕事

2015年8月25日

農業を営んでいる人達には申し訳ないが、私にとって蛇蝎のような、不倶戴天とも思える「梅雨」が終わったと思ったら、「猛烈な暑さ」が突然やってきて、われわれ年輩の者にとっては人生の後半にとどめを刺すかの如く世の中で生きて行くことの厳しさを思い知らされる。

かつての高度経済成長時代には、「モーレツ社員」があたり前に存在し、今の日本経済の基盤を作った。家電製品、車、家を取得することを目的に、そして、より文化的な生活をすることによって、「幸わせ」を味わってきたと思う。そんな生活の中で「趣味は仕事」という人達が大勢いたように思う。

そもそも「趣味は仕事」という言葉は矛盾だらけの日本語である。というのも「趣味」は自己満足の価値観の中で経済面を無視してお金を灌ぎ込む浪費である。対して「仕事」は人生や生活を充実して送るための手段として収入を得るものである。この両方が共存する訳がないし、共存してはどちらかが成り立たなくなるのだ。

最近、若い人達と会食したり、面接して思うことだが、「楽しい仕事がしたい」ということをよく耳にする。しかし「仕事」は厳しいものである。楽しければそれでよいという価値観で仕事をすれば、利益の確保はおろか顧客に満足を与えることすら難しくなる。仕事を通してその中に楽しみを見つけるのは良いことだと思うし、それによってより充実して仕事も継続できるであろう。しかし、楽しい「仕事」をしたいというのは仕事を遊びの価値観でやろうとしているのであって「仕事」と「遊び・趣味」の区別が明確ではない。「仕事」を楽しみたいのであれば、自分の趣味を仕事にするか、自己で仕事の中に喜びを見出すしかない。

ここは趣味を楽しむために、そして人生を充実させる手段として「仕事」を割り切りませんか。

21.決断と男節

2015年5月25日

今年の桜もまた私の誕生日を祝して満開となってくれた。その満を持して咲き乱れ、万朶の桜をプレゼントしてあげますという春の思いやりが昔から嬉しい。
しかし、今年はほとんどの桜花が長雨にたたられ、年に一度の晴れ舞台に水をさされてしまった。 
今回は、自分が逆境にあり、迷い、挫けそうになった時、子どもの頃から自己を鼓舞してきた詩を載せてみたい。小学生時代のアニメの主題歌とエンディングなので御存知の方もおられると思うが、私にいつも勇気を与えてくれ続けた詩なので感謝している。

決断

智恵をめぐらせ  頭を使え
悩み抜け抜け男なら
泣くも笑うも決断一つ
勝って奢るな  敗れて泣くな
男涙は見せぬもの
つらい時には相手もつらい
攻めか守りか腹一つ
死ぬも生きるも 一緒じゃないか
弱気起こすな  泣き言言うな
のるかそるかの時だもの
右か左か
戻るか行くか
ここが覚悟の決めどころ
勝つも負けるも決断一つ
一度決めたら二の足踏むな
俺も行くから君も行け

男節

男だったら力を試せ
男だったら望みを燃やせ
男だったら挫けるな
俺もお前も男と男 同じ真っ赤な血がかよう
腹を決めたら真直ぐ歩け
腹を決めたら迷っちゃならぬ
腹を決めたら振り向くな
俺もお前も桜の花よ 花の咲く春夢に見る

生きてゆくなら涙を捨てろ
生きてゆくなら嵐を越えろ
生きてゆくなら胸を張れ
俺もお前も男と男
にぎる手と手に朝が来る

人生を振り返ってみると、困った時、つらい時、迷う時、いつもこの詩に助けられて今まで成長してきたような気がする。
これからも私を励まして下さい。

20.安易な判断

2015年1月11日

「歴史は判断結果の蓄積である」と私は常々自分に言い聞かせているのだが、結果に無頓着で責任を負う気概の無い者にとっては判断基準は場当たり主義でメトロノームのように揺れ動き、その場しのぎの御都合主義で後先考えることもなく安易に適当に判断出来るものらしい。

本来、権限を持って判断するという事は、その結果に対して責任を持たなくてはならない。持てない、持たないのであればそもそも判断してはいけない。「すみません」「申し訳ない」という、口癖と区別できないような言い訳で事を済まそうと思うのであれば、それはあまりに軽すぎる。不合理な判断を意地と面子を守るために貫かれたら本人だけには正義であっても周りは誠に迷惑で、組織にも多大な損害を与えるという事を知るべきである。

何も改善しないと判断し、問題を先送りし解決を怠った場合、そしてそれが蓄積され続けた場合、それは組織にとっての悪夢である。その考え方の立ち位置を考えると、何か自分の立場を勘違いしているのか、その組織を自分がどうにでもできる「おもちゃ」と思っているのではないだろうか。組織は自己満足のできる「おもちゃ」ではなく最大多数の幸福を達成するための手段として存在する。そうである以上、日々常々組織は「改善」と「改革」を意識して「皆がより良く仕事ができる環境」を整備し続け、そして持続可能な強力な組織とするため、採算・収益を意識し続けなければならないと思う。

人を一人前に「育てる」という理念について考えても、かつては多少の無理や理不尽なことがあっても一人前になるまでは苦労するのが当然という考えがあって「仕事は教わるのではなく盗むもの」と教えられた時代があった。今でもその考え方において本当に早く一人前になってもらいたいと考えて鍛え、実際にその時期を耐えれば、その道の「一人前」の人間として認めてもらえる現実がある。しかし、ブラック企業においては「人を育てる」という視点が乏しく、人としての尊厳を失わせ病に追い込んでしまう。  そんな「人を育てる」という理念における判断や、組織の中にはびこる身勝手で安易な判断は結果を良くないものにし、歴史を汚してしまう。

19.権利と信頼関係

2014年10月10日

例年は長い猛暑をやっとの思いで乗り越え、サウナの後の水風呂の如く秋をここち良く堪能するのが日本の本来の気候だと思っていたのに、今年は猛暑日の後に梅雨があってから台風に国土を痛めつけられた。近年はなかなか、おてんとう様との信頼関係をうまく築けていないようだ。国土で生活する我々は地震と台風は神の怒りとあきらめているが、日本の快適な四季と潤沢で適度な降水量は当たり前の権利と思ってはいないだろうか。

さまざまな権利は確かに憲法や法律で保証されている。そこには法が定められた目的が明確にあって、例外のない法律もまた無い。なぜなら完璧な法律もないし、道理として仕方のない事も多いからではないだろうか。雨量が多過ぎるからと誰にも文句は言えないのが普通である。そんな中で、法律上の権利のみを声高に主張する輩が存在する。世に言う「権利主義者」である。言っていることは法律上間違ってはいないし、至極正論である。しかし、社会には大多数が納得する「道理」という社会規範が存在する。それはその時代各々の価値観や道徳観、美徳などによって変わってくるものであって明文化されたものではない。だからと言ってその「道理」が法律以下なのだろうか。法律が絶対となると違法でなければ何をやってもかまわないという輩が跋扈する世となってしまう。

公害防止法のない時代の企業は法律違反ではないという理屈で日本の自然を合法的に破壊してきた。普通に誰が考えても海や空は汚さないほうが良いとわかっている。何事も法律を第一義に判断し争うのではなく、日本人なのだからお互いの信頼関係を試してみる意味を込めて、話し合いをして「道理」にそった権利を主張し合いたいものだ。

18.船長の責任放棄

2014年7月7日

軍艦は艦長、それ以外の船は船長、どちらも英語では「キャプテン」である。船舶の最高責任者であり管理者であって、その立場における責任の重さは無限である。だからこそ、船長たるものはすぐれた人間力・判断力・高潔な道徳心・自己犠牲心が必要なのである。  海洋上の法規や慣習は、英国を中心とした欧州の歴史の蓄積から成り立っている。沈没の際には女性子どもを優先して退艦させ、次に男性。その後船員が去り、最後が船長とあたり前の文化が世界にはある。日本も英国の文化を正しく継承して船長・艦長は対応してきた。

タイタニック号が沈没したとき、英国の船長はあたり前に指揮をとり、救命ボートに女性子どもを優先して乗せ、乗れない男性客と船員、船長は潔く死んだのである。これが世界平準、あたり前の文化である。  遠く異朝をとぶらえば、いの一番で船長が逃げた。民間人を装って。修学旅行生を助けることもなく、船員に指揮して何らかの対応をすることもなく。自分が助かりたい一心で、自分の事だけに専心し、一生懸命脱出した。後の事など知りません。船を造った会社が悪い、お客も悪ければ、船員も質が悪い、だから俺には関係ない、自分だけ好き勝手にやって何が悪い、と開き直った行動なのだろう。沈みゆく船舶から指揮官たる船長が、身勝手に退船すれば残された人達が困ることは明白である。あの瞬間に船長は責任を放棄し、明確に船長職を放棄した。自分だけは助かろうという身勝手さで、人の迷惑を顧ることなく放棄した。これは人道に反するおぞましい行為だ。

かつてさなえにおいても、無責任極まりない責任者がいた。幼稚な内容を注意されたことが気に入らなかったのか、半狂乱な振る舞をし、悪態の限りを尽くして突然退職した。一か月前の事前予告という社会の常識を無視してである。その行動によってさなえが運営上困ることを解っていながら、自分の感情のみを優先し多大な不利益をねらってのことである。その人にとっては、関わってきていた利用者の事など眼中になく、自分の思い通りにならないと自分以外の全てが悪となり、責任放棄が正義となる。船長と意識・心根が同じである。結局、偉そうなことを言ってても自分の事しか考えていない。就労支援の名のもと、この手の輩が責任者をすることはおそらく無いと思うしあってはいけない。自分の身勝手な世界の構築のみを目的としていて、就労支援の責任は放棄しているのだから。この事は何十年関わっていようとも実績と歴史が証明してくれる。そして、仕事の辞め方でその人の人柄と人間性の本質が明らかとなる。

17.幸せな「勘違い」

2014年4月4日

寒梅は厳しい風雪に耐え、これでもかとその花を開き、日本人の最も愛する花である桜は大陸性高気圧を北へ押し上げながら日本に春をもたらしてくれる。 私は桜が満開の時節に生を受けた。それ以来、毎年、私の誕生日を祝って桜は満開になるのだと思っている。万朶の桜は俺の花、これは私の勝手な思い込みで勘違いである事はわかっているが、幸せな勘違いとして許してもらいたい。自分の事は棚に上げて人の勘違いについて考えてみたい。

昨年末から話題となった冷凍食品への農薬混入事件の中で、犯人が「会社の評価と待遇に不満があった」と述べているが、彼は根本的に世の中を勘違いしていると思う。何故なら、犯人自身が自己を評価しているからである。世の中では、あらゆる組織において自身が自己を評価するものではなく、他の人が評価をする事が、当然で当り前の事なのである。この手の勘違い人間は、思考回路が「自己都合」化しているので、あらゆる事について、理路整然と誤った判断をするしかない。

休憩時間中に求人情報をネット検索しているような輩がいるらしい。そんな負け犬根性の権化のような人々に言っておきたい。世の社会人の中で一般的に「仕事が出来る」と言われる人達は、今現在の仕事に「没頭」しているから「仕事が出来る」のである。都合の良い言い訳を考えたり、逃げ道を探す暇があったら、今の役割に「没頭」し、一生懸命に生きるべきではないだろうか。それが出来ないと、結局何をやっても中途半端で成功もない。仕事はいくらでもある。しかし、継続して「没頭」して自分のものにしない限り人に評価される事はほとんどありえない。自己都合の「言い訳」と理路整然とした「勘違い」の話をしているうちに、日本と戦争もしていないのに戦勝国然とした態度で振る舞う隣国の事が頭をよぎってきた。「都合のよい勘違い」をいくら理路整然と述べようと根本的な価値観や思考に誤りがある以上、その判断や結果は理路整然と誤るものだと思う。

春は青春に通じる。青春は年齢ではない。たくましい意志、豊かな想像力、炎える情熱の事である。理想と情熱を失わない限り私は若いだろうと都合よく「勘違い」して生きて行きたいと思う。

16.心地よい「勘違い」

2014年3月11日

孔子の言う信頼できる人間とは、「剛毅木訥」な人である。何か堅苦しい感じがするが、その意味はと言うと、意志が強く困難に屈することなく、地味で口下手な人のことである。概ねそんな人は愛想がなくとっつきにくい。しかし、そんな人の方が昔から巧言令色な人よりも多大な信頼を勝ち得てきたのである。

そう信じて五十年余りを生きてきたのだが、冷静に世の中を観てみると「巧言令色」が持てはやされ、幅をきかし、良い人の条件となってしまってはいないだろうか。本来、「巧言令色」な人とは信頼に値せず注意すべき人間の事を指す言葉であって、相手のことを思いやる本当の愛情が欠けている人間を意味していたのである。その「巧言令色」な人間、例えて言うなら表面的な人間関係に波風が立つ事に気兼し、相手の機嫌を伺い遠慮し、楽しく仲良しの関係を保つことが、自分も好かれていると勘違いしている人が多くないだろうか。そこには何ら信頼関係の根拠がない。

「かわいがられる」その意味として、現代ではいい加減な仲間内で、嫌な事を言われることもなく、楽しく過ごせる相互関係の中で相手にされることを指すようだ。組織内においてある個人が、一部の人に「かわいがられ」て、また別の人たちに「嫌われ」るという事象がある場合、大抵がその個人が常識的なスタンスで仕事に取り組んでいない事が多い。基本が非常識で、その仕事振りを認められていない人達からは気の合う仲間として「かわいがられ」、真剣に仕事と人生に向き合って生きている人達からは「異物」として「嫌われ」るのである。その本人には謙虚さが欠けているためか「怒られる」と「叱られる」の区別すらできない。

自分に都合の良い人間が関わってくれる事が、「かわいがって」くれていることで、たとえその人間が組織内で仕事にだらしなく軽蔑されていても、仲良しで気が合うというマイナスな波長が一致すれば尊敬できるらしい。その類の輩は自己防衛の為なのか平気で嘘を言いごまかそうとする。表面的な幼稚な関係の中では通じるからといってどこでも通じるものではない。「巧言令色」をもって素敵な人間関係と考えている人達は基本を勘違いしているだけである。表面的な居心地の良い関係など何の価値もなく、むしろ害悪であると孔子は言っている。子を見ればその親はわかる。友を見ればその人もわかると言われている。「巧言令色」を心地良く思うか、「剛毅木訥」を目指すかで、その人の腹の内や本質はすべて見透かせるのである。私はどこまでも、いつまでも「剛毅木訥」で信頼に足る人間を目指して生きて行きたいと思う。

15.夢と「勘違い」

2014年2月12日

バブル崩壊の昔を彷彿させるような株価の下落とそれに追い打ちをかけるような気温の急低下を目の当たりにして今年の立春を迎えた。暦の上では今日より春になるというのに、頭の中は昨年末の諸物価上昇や春からの消費税増税と負担増のやるせなさで心に春の息吹は感じられない。

だれしもが子供の頃、何の現実も意識する事なく無邪気に将来何になりたいかを考えたと思う。「先生になりたい」「医者」「パイロット」「警察官」……そこで子供達が希望する職業はほとんどが世のため、人のためになって尊敬される職業か、偉くてカッコイイと思われている職業なのである。本当に子供には夢がある。

では、現実はどうなのか。大学生が就職を希望する人気ある職業は、公務員であり大企業の社員がほとんどである。収入と組織の安定を第一に考えている結果ではないだろうか。そして中には誰しもなりたくはなかったであろう反社会的な組織に属したり、犯罪者になっている現実もある。どの時代においても、子供は夢を大いに持つべきだし、大人も夢を捨てるべきではないと思う。ただ大人は現実を見極めながら地に足を着けて夢を共存しているのである。生活や家族の犠牲を礎とした夢の追求は大人の社会人のする事ではない。だから、大学生達の就職傾向を見て夢がないとは思わない。夢の形を変えているだけなのであろうと思う。

最近、きのこや牛などの投資話での詐欺事件が新聞紙上を賑わしている。ありえるわけがない配当を信じ込み、選ばれた人間と勘違いした結果、痛い目に遭っているのだろうが、一般の大多数の人々から見れば騙される事が信じられないというのが本音ではないか。おそらく騙される人は他人の意見にあまり耳を貸す事もなく、また相談できる信用に足る友人がいないのではないだろうか。そして自己陶酔して一人で儲かることを勝手に勘違いして夢見ているのであろう。この手の人は詐欺師の甘言に心地よさを感じ、その術中にはまってしまう。そもそも信用とは継続と蓄積の結果である。表面的なやさしや甘言をもって良い人だとか、信用できる人と思う事がおかしい。巧言令色鮮し仁である。孔子が言うように誠実な人間はほとんどいない。そんな輩が、無知な人間に夢を見させその気にさせる。しかし、それは勘違いをして夢を膨らませ欲望を満たそうとした人の失敗でもある。

人は生きていく上で夢を持つ事は必要である。しかし、現実逃避している夢や、地に足の着いていない夢、人に迷惑を掛ける夢は持っていても意味がない。本人が自己満足はできるだろうが、結局、破滅したり、詐欺に遭うのが関の山である。これから世の中がどのように変化しようとも、健全な夢を、勘違いすることなく持ち続けて生きて行きたいものだ。

14.流水不争光

2014年1月17日

新春のお慶びを申し上げつつ、時の流れが速すぎる、と実感する日々が押し寄せてくる。新聞、TVと真剣に向き合って、世の中の制度や価値観の変化に遅れないように努力すればするほど、何か息苦しく、気持ちに安らぎが得られない。こんなゆとりのない不安を感じるのは私だけだろうか。

今の世の中、「経済合理性」と「効率」があまりにも幅をきかせていると思う。特に、リーマンショック以降、「国際競争力」という御旗の下、効率が良くて合理的な事が正義となってしまったようだ。だからこそ大多数の企業は給与カットによる雇用の維持ではなく、給与据え置きのリストラの道を選択したのだと思う。

その昔、日本の文化の中では、効率は悪くとも人ができる事はなるべく人に仕事として従事させる文化があったように思う。外国の映画の中には馬車がよく出てくる。人の移動用、荷物の運搬用なのだが、これを日本に当てはめれば、人力車、籠、大八車等すべて人が馬の代わりに負担している。飛脚も頑張ってるし、大井川を肩車で人が人をかついで渡河している。今の価値観でこれらをとらえるとすべて効率が悪く、不合理である。しかし、それに従事する人の雇用や、収入の手段としての仕事は確保されていたのである。  昨年4月より、障がい者の雇用率が法律により改善された。しかし、この改定は、企業の社会的責任としての義務を強制的に強化したものであって、勘違いしてはいけないのは、決して企業の善意ではなく、そして障がい者の権利ではないということだ。企業が効率と合理性に比重をかけるのは当然の事なのだから、仕事ができなくても雇ってもらえる的な甘えで喜んでいてはだめなのである。

法律の強制によって、仕方なく障がい者を雇用しないと企業イメージが悪くなるとか、社会的責任を果たしていないというレッテルを貼られるとか、そういった積極的ではない理由からの雇用が大半なのが現実である。企業が自主的に障がい者のための仕事を創出したり、企画したりする事は稀なのである。

一時的には効率は悪いけれど、共に同じ社会の中で生きているのだから、共に仕事をすることがあたり前という価値観の世の中を、先を争う事なく自然に普通に流水の如く味わいたいものだ。我々は企業のコンプライアンス目的の雇用だけでなく、急ぐことなく日本の古き良き時代の思いやりある雇用文化を復活させたいと思う。

13.自己責任と矜持

2013年7月5日

「人に迷惑をかけてはいけない」「嫌われても軽蔑される人間になってはいけない」
誰もが子供の頃に親から一度や二度は言われたことがあると思う。世間の常識として親心から子供が社会の中に受け入れてもらえるよう育って欲しいという願望が言わしめていたのだろう。現実の世の中では、迷惑はかけたりかけられたりしてお互い様の関係であるうちは問題になる事はないと思う。分をわきまえた甘え甘えられの関係は、親子であれ他人であれ普通の事でもある。しかし、そんな中に極端な人たちがいる。

駐車場内で自分が運転をして犯した過失を駐車場の管理責任だと声を大にして主張する人。自己の責任を何とか人の責任に転嫁する事を恥と思わないで、理不尽な自己主張ばかりする人は一切の迷惑は考えていない。商品を購入して自己都合で代金を支払わない人も売った側の迷惑は一切考えていない。一歩間違えれば取り込み詐欺なのだけれど、土下座すれば許され、その場がしのげる程度の感性の持ち主が多い。「給食費も払えない」などと子供をダシにして言い訳をする。子供を言い訳の嘘で使うことに「恥」の概念とか親としての矜持はないのだろうか。そして原因は自分に起因しているにも関わらず、銀行や取引先に責任を押し付け「自己責任」を顧みる事はなく、人間としての「矜持」が欠如している。本来、会社にとって銀行は応援団なのだから大株主様、取引先あっての商売だから取引先は神様、というのが基本である。その基本は信用・信頼が相互に存在する場合のみ有効である。それが、自己責任を顧みず、自己の矜持を無くしたときには、嫌われるだけでなく軽蔑され常識的な人に相手にされる事がなくなってしまう。世間はそんな人間を容認する事はない。法律が許しても、社会の道理が許さない限り否定され続けるであろう。

我々さなえの存在と活動は社会の一部として成り立っている。特別な「障がい者村」ではない。職員・利用者を問わず「障がい者だから」と勝手な言い訳が先行してはいないだろうか。社会において、自己責任と矜持は障がい者だろうが健常者だろうが関係はない。一人の人間が社会生活を営む上で無くてはならないものだ。「さなえ」で訓練をしている利用者の諸君については、それぞれの障がいによりそれを理解するスピードや、身に付くまでのスピードは人それぞれ違うだろう。しかし、その自己責任と矜持をどう持ったらいいのか、あるいは自己責任とはどういうことなのか、という根元を時間はかかってもいいから習得してほしい。職員の諸君については日々漫然と業務をこなし、作業をするだけが仕事ではない。その作業を通して訓練できるであろうもっと大切な事を伝えるべく、矜持を持って支援にあたらなくてはならない。この事は保護者の方々にも言えるかもしれない。物事を他の責任として押し付け、自己責任から逃れようとはしていないか。逃げる人生ではなく、社会のあたり前の一部として、前向きに取り組む社会人としての矜持を持って生き遂げようではないか。

12.理不尽と納得

2013年4月4日

最近、体罰が原因と思われる高校生の自殺事件に端を発して部活動や学校における指導のあり方が社会問題となっている。そんな中で今度は女子柔道の日本代表チーム内の体罰・パワハラが出てきた。これらの事件をマスコミは、スポーツ界におけるゆきすぎた指導として取り上げているように思われるが、はたして問題の本質はそんな事であろうか。

地方公務員である教員と、国家公務員である警視庁の警官による暴行傷害事件ととらえることはできないだろうか。本質は公僕である公務員がその身分立場を顧みることなく善良な一般市民、スポーツに真剣に取り組んでいる市民に対して理不尽な暴力や圧力を与えた犯罪行為である。逮捕されても仕方がない。体罰は傷害であり、絶対にあってはならないことだ。私は体罰を完全に否定する立場に立っている。私にも体験があるが、スポーツの部活動を経験した人々にとってはた目から見ると体罰ととられかねないシゴキは普通にあった。鍛えるという行為そのものがとりようによれば自身へのシゴキである。そのシゴキは本人の納得のもとに行われ、問題は発生しなかったと思う。中には度を越えた事もまれにあったと思うが、応々にして「この先生のシゴキは自分の糧」として受ける側に納得があったと思う。野球を通して甲子園をめざす選手達が仮に長嶋さんにシゴかれたとしても、その事実を自慢し、良き思い出にできるであろう。
何故、この人にシゴかれなくてはならないのかが理解も納得もできない、という現実が体罰を生み出しているのではないだろうか。問題の体罰を行っている指導者達は理不尽さに気づきもせず、殴られても仕方がない(実際にあってはならないが)とまで思われる尊敬やあこがれ、相手を納得させるだけの人間力などの資格が欠如しているか、欠如していることさえ自覚できていない思い上がった人間であろうと思われる。

我々さなえの中の利用者と指導員や、指導員と指導員の関係において、「理不尽」と「納得」を十分に認識できた上で厳しい指導ができているのであろうかと考えさせられる。頑固に自分の価値観を押し付けていないか、変なプロ意識を持って上目線で対応してはいないか。人間として信頼されない対応をしてはいないか、個人の好き嫌いを顔に出してはいないか。考え始めると無限に出てきて不安になるが、遠慮して萎縮したり、躊躇すべきではない。世の中は「道理」を基本に動いているのだから、極力「理不尽」を排除し、「納得」を得れば全てはうまくいくのではないのだろうか。

11.スポーツと秋

2013年1月9日

私はスポーツ観戦をする際、特にラグビーとサッカーの試合観戦が多いのですが、試合前の国歌や大学の校歌を斉唱している選手たちを観察して勝敗の予想をしている。唱っている選手の多寡、元気良さ、意気込み、表情、目つき、醸し出されるパワー等々…それらを総合して判断した予想はほとんど狂うことはない。違ったとしても、接戦の甲乙つけ難い伯仲した試合になっている。

試合開始までの残り三十分位の時間というものは、選手達にとって緊張感が最高レベルに達し、集中力を研ぎ澄まし、今日という日の試合への出場に感謝しつつ、後悔のないよう全力でプレーするぞと誓っている時間である。その上に、その立場は国家や大学を代表しての出場なのであるから、肩に背負っているものは尋常ではない。そういう状態の中で、チームの仲間と共に堂々と国歌や校歌を唱っていないチームは勝つことはない。これは相手チームとの相対的な比較ではあるが、唱っていない選手が多いチームはまず負けている。サッカーの日本代表ですら、興ざめした無感動な顔をして唱わない選手がいる。本当の日本代表の自覚はないのかもしれない。唱わないことがカッコイイとでも思っているのだろうか。そんなことを思っていたらJ2へ降格してしまった。三年前、明治大学のラグビー部のOBの方に「今の明治の選手は校歌をしっかり唱ってないので勝てませんよ」と苦言を言わせていただいたのだが、実際、明治は弱かった。しかし、昨年頃から、一生懸命唱い始めたところ、今年は14年振りに優勝を果たしたのである。その優勝はメンバーをはじめ、チーム全員の意識が何とかして強い明治を取り戻そうということに結束された結果であると思う。現在の明治の選手は堂々と誇らしく「日本一」の校歌を白けることなく唱っている。その思い・心意気が早明戦での逆転劇を生んだものと思う。組織の中で、白けた、我関せずの無関心な人間の存在というものは「腐ったみかん」のようなものである。他のまともなみかんを腐らせることはあっても、良い影響を与えることは全くない。

メンバー各々は、決して腐ったみかんになってはいけない。同じ目標に対して一生懸命に取り組み、今、この時を大切にしつつ、相手に感動を与えるような仕事をするべきである。そして、その時その時を後悔することがないように生きていくべきであると思う。そんな中で、意図に反してノックオンをすることがあるかもしれない。しかし、そんなことを恐れていては前へは進めない。その落としたボールを全員でフォローすることがより大切なのである。今年も、これからもずっと、無限のフォローをしてお互いの人間力を高めていこうではないか。

10.働く人を目指して

2012年11月12日
みなら特別支援学校 講演
1. みなら特別支援学校とさなえグループの関わりとその歴史

・ 支援学校(養護学校)から卒業生を初めて受け入れた経緯 
・ 一般企業に障がい者を雇用することの良い点、難しい点 

2. 40年前との比較からみる家庭・学校・職場を取り巻く環境の変化

・ 日本経済の状況の変化から文化・企業経営などが大きく変化 
・ 40年前の保護者と教員(自己体験から) 

3. 「仕事の場」としてのさなえの設立

・ 「さなえ」の理念 
・ 企業が行う福祉は悪? 
・ 無限の素人が支援を実施 
・ 障がい特性の把握分析と判断 
・ 仕事の能力だけでない能力判断 

4. 「仕事の場」としてさなえのめざすもの

・ 社会との接点を恐れない社会的自立 
・ 仕事を通した経済的自立 
・ 職員のための福祉から利用者のための福祉への転換 
・ ラグビーを通して心身を鍛え、コミュニケーションを確立 


みなさん、おはようございます。ただ今、御紹介にあずかりました、さなえの小川でございます。本日このような場所に私のような者をお招き頂きありがとうございます。みなら特別支援学校も今年で40周年、養い護るから支えて応援するという転換はございましたが、現在の華々しい歴史と実績に対して敬意をもってお慶び申し上げます。これもひとえに諸先輩方の不断の努力の成果だと思います。 
本日、私に「働く人を目指して~家庭と学校に期待すること~」という演題で何でも言いたい事を話してほしいと井上先生より御依頼があり「何があっても後悔しない」という確約を頂きましたので、安心してお話させて頂きます。途中、用語や言葉遣い、独断と偏見に満ちた価値観など、失礼極まることがあるやもしれませんが、クレームの一切は井上先生までお願い致します。受け付けは24時間、OKですよね。井上先生。 
サービス業は24時間、お客様がすべてですから。本日のキーワードは、理屈ではない「人間力」です。これからこの「人間力」という事を中心にレジメになるべく沿って話を進めたいと思います。残念ながら私は福祉に関して素人ですので、経営者としての企業側の価値観が中心になる事を御容赦ください。 

1. みなら特別支援学校とさなえグループの関わりとその歴史

支援学校(養護学校)から卒業生を初めて受け入れた経緯

今年、私どものグループも設立40年を迎え、父の代から創立52年となります。支援学校とのおつきあいも20年以上になり、その間に多数の卒業生を受け入れてきました。その最初の受け入れは23年前の事になります。 
当時、附属養護学校の教員で、私の高校時代の後輩である玉井政広君(知ってる人います?いい男です)が、「先輩、1人でもいいですから雇ってくれませんか?」とストーカーのように付きまとうものですから、私も根負けして1人採用してしまいました。この玉井という男のストーカー行為は別にして、人脈の活用と悪用はこの男の「人間力」が勝ち取ったものではないでしょうか。そうなると1人じゃ可哀想だから、2人3人と増やしてあげなければと思ってくるものです。みなら特別支援学校では、その2人目、3人目は村上博君と河野琢磨君からスタートです。彼らは現在もさなえのA型とB型に在籍し、毎日頑張っております。この、彼らを受け入れたときに発生した事件のことは今でも忘れることができません。 

一般企業に障がい者を雇用することの良い点、難しい点

従業員から「社長!私たちは仕事に来ているので、この子たちの面倒を見に来ているのではありません。」とか「この子たちと同じ仕事をしている自分が惨めになる。」など、こちらが情けなくなるような不満とクレームをぶつけてきました。「だったら辞めれば」ということで10人以上の社員が去って行きました。そんな「人間力」のない社員ばかりいたのかと思うと情けなくなったものです。私も天邪鬼ですから、それなら逆にとことん受け入れようということで、気がついたら20年で32名のメンバーとなっていました。そしてさなえとなって今年の10月末現在で、215名を受け入れております。そんな戦いを続けてきたおかげで、私の頭の毛がなくなったのかもしれません。(井上先生もそうでしょ?) 

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2. 40年前との比較からみる家庭・学校・職場を取り巻く環境の変化

日本経済の状況の変化から文化・企業経営などが大きく変化

40年前というと1972年、大阪万博が終わり、総理は田中角栄、日本列島を改造しまくって今の中国のように高度経済成長の時代です。まさに「サザエさん」の中に見る世界で、人情は「3丁目の夕日」です。明治・大正の人々の「もったいない文化」と「捨てない文化」の中で人情と道理を大切にしていたと思います。企業は、今や公務員にしか残っていない権利である終身雇用・年功序列・年功賃金というものが常識でした。しかし、バブル崩壊後、リーマンショックを経て企業は合理主義と収益重視が正義となってしまい、お金があっても平気でリストラし、実業団チームを廃部する時代になってしまっています。これが悲しい現実です。 

40年前の保護者と教員(自己体験から)

40年前の先輩方や保護者も偉かったと思います。熱心な熱血漢の、今では即逮捕といった先生方がごろごろおられました。でも現代の懲役10年位の体罰でない限り、誰も文句を言うことはありませんでした。親は親で「殴られたお前が悪い」の世界ですから、学校では先生に従うことが義務であり、正義だったと思います。親は自分たちも戦前の厳しい教育を受けていたので厳しかったですし、他人の厳しさに感謝できる価値観を持っていたのだと思います。 

高校時代、私の数学の教師は前日に巨人が負けると機嫌が悪く、生徒に当たり散らすし、出席簿で平気で女生徒の顔面を張り倒していました。さすがに親も「女の子なので顔だけはやめてほしい」と申し入れをしたらしいですが。「アメリカの学生はこれで解いている」ということで数学のテストを英文で出す嫌がらせ。おかげで数学用語を英語で覚えることはできましたが、今となっては反発というより感謝しています。本当の意味での自主性は誰も教えない事から生まれるのではないかと思います。今でもよく分からないのですが、厳しさの中に「理屈ではない人間力」が先生にあり、社会もまた道理を大切にする大人の社会であったのではと思います。 

そして今、40年前とは保護者と教員の意識が大きく変わってきていると思います。マスコミの影響からか権利ばかりを主張し、権利が義務を果たしている者に認められるということを忘れているように思います。障がい者の法定雇用は企業の義務ではありますが、その選択権は企業にあるので障がい者の権利ではないと思います。また一般企業は行き過ぎた権利主義者を好んで雇用しません。なぜなら、企業が成り立たなくなるからです。また自由と平等を勘違いしている人も多いと思います。本来、自由と平等は相反するものです。自由競争をすれば結果は不平等になります。ということは平等は機会の平等であって結果の平等ではないということではないでしょうか。自由は自己責任の範囲において自由なのであって公共の福祉に反することは不自由が当たり前なのです。保護者の方々はここのところを原点に立ち帰ってもらって先輩達の良き文化を見習い、御自身の「人間力」を高めていく努力を惜しまないでいただきたいものです。 

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3. 「仕事の場」としてのさなえの設立

「さなえ」の理念

私自身、3人の子供を持つ親なのですが、私の親から見れば私も子供の1人です。子供として親の気持ちを考えると、私が生まれてきた理由は、両親が私を必要としているから生んでくれたと思っておりますので、生んでくれたことに感謝をするとともに、何とか親孝行をしたいと思っております。そして、自分の子供達を逆にあてはめると私はどうしてもらえば幸せと思えるかを考えてみました。そして辿り着いた結論は、「この子達ならなんとかやっていける。安心だ。」と思って死ねることが、人生の最期の際に最も安らげるのではないかということでした。最高の親孝行は安心して死ねる事ではないか。そんな事を、長沼会長はじめ数人の有志と酒を酌み交わしながら発足させたのが、「親を安心して死なせる会」なのです。最初に開設したさなえオアシスのオアシスは親のオ、安心のア、死なせるのシスの頭取りなのです。「さなえ」は初夏にすくすく成長し最終的に穂をつけるという成長性を願ってつけたと思われがちですが、実は違います。本当は、私の頭のあがらない家内の名前でございまして、将来、私の子供たちが私の思いを勝手に想像してくれて勝手に評価してもらおうという親の思いを込めて名付けました。 

2008年8月 NPO法人さなえ設立 10月さなえオアシス(A型)開設。 

今、「私が死んだらこの子はどうなるのだろう。それを思うと死ぬに死ねない」と思っている方、おられますか。 
おられたら、手を上げて下さい。 

ありがとうございます。 
長沼会長!今後の根本的解決を山﨑とともに宜しくお願い致します。 

企業が行う福祉は悪?

なんとか「さなえ」を立ち上げて、さまざまな業種を展開しはじめますと、さまざまな逆風に吹き飛ばされそうになったときがあります。福祉のプロと自称される方々や資格を鼻にかけているようなエセ福祉家からの誹謗中傷が駆け巡るのです。「さなえは企業がやっているから収益重視で福祉なんかやっていない。」とか、「さなえは素人集団で支援が全くなっていない」など、御自分だけがあたかも正義の福祉をやっていて完璧で他の価値観を受け入れるとか、ともにスクラムを組んで進歩・発展しようなどという広い視野に立った方は少なかったと思います。私が絶対正しいといううぬぼれた自己満足型の福祉をやっている方々の何と多いことでしょうか。私の経験からは資格をもつプロは例外の方もおられますが、応々にして素人よりも「人間力」が乏しいと思われます。クソにもならないプライドが邪魔をするのか、資格にふんぞり返っているのか、いずれにせよ資格が嘲笑の対象にしかなってない人が多いのが現実です。 

無限の素人が支援を実施

本来資格うんぬんではなく、どれだけ利用者のことを理解し、利用者に信頼されるかが大切なのではないでしょうか。私は「さなえ」のスタッフに常に「無限の素人」であれと言い続けております。社会人になったときは、誰もがその世界の素人であったはずだし、親となったときも子育ての素人でした。素人だからこそ真剣に取り組み一生懸命やってきたのではないでしょうか。それが変なプロ意識を持ったとき、進歩や成長は止まると思います。常に「無限の素人」であれ。世を変えてきたのは常に素人であるのだから。「さなえ」はその素人の力でもって「人間力」を磨き、努力した結果は将来歴史が証明してくれるものと私は信じております。 

障がい特性の把握分析と判断

資格を持っている人の悪口のようになってしまいますが、障がい特性の分析とその判断をするときに自分の専門による分析を重視して判断をすることによって人間力のある素人と比べて利用者から人間としての信頼を得ていない人が多く見受けられます。また一般就労で評価されるのは仕事の能力だけではありません。現在の学校の評価は、あまりにも能力評価に比重が偏っているのではないでしょうか。サービス業ではお客様がすべてを判断します。人間としての礼儀、謙虚さ、笑顔などのトータルの印象も重要な要素なのです。そう考えると学校の評価イコール企業の評価ではないのです。 

仕事の能力だけでない能力判断

能力の評価は絶対評価しやすいのですが、それがすべてではないのです。マニュアル化された絶対評価で、その子に烙印を押すようなことはいかがなものでしょうか。子供の評価をする場合、できることならば人間的魅力と常識的社会性、プラス能力で総合判断する仕組みへの転換が必要ではないでしょうか。 

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4. 「仕事の場」としてさなえのめざすもの

社会との接点を恐れない社会的自立

社会との接点を恐れずに社会的自立をするとありますが、これは松山にいる以上、松山の人間として普通の生活をするということです。電車やバスに乗って通勤し、帰りに寄り道やショッピングをする、当たり前の事を普通にやっていこうということです。何も恐れずにです。 

仕事を通した経済的自立

仕事をして経済的自立をするは、死ぬ時に「この子はどうなるのだろう」ではなく「この子ならなんとか生きていける」と確信できるよう生存中に自立を押し進めるべきだと思いますし、経済的に自立できれば結婚さえもできるようになると思います。現にさなえではA型同士の2人が結婚し出産までしています。私は秀吉が「秀頼を頼む」と哀願して死んだのは親として不幸の極みと思っています。 

職員のための福祉から利用者のための福祉への転換

次は「利用者を就労させると人数が減って経営が成り立たなくなる」といった本末転倒な考えの施設が多数あることです。それは職員のための福祉ではないでしょうか。我々は一般就労を押し進め、利用者が魅力を感じるような施設を常識をくつがえして創設していきたいと考えております。 

ラグビーを通して心身を鍛え、コミュニケーションを確立

「さなえ」には体育の時間がありませんので、運動しようということになりまして、さなえラグビー部を2月に創部しました。部員は男女合わせて50名程度で、みんな素人です。毎週日曜日、朝10時から1時間半ほど堀之内の公園で松山市ラグビー協会や諸先輩の御協力のもと、汗を流しております。タグラグビーが中心なのですが、ラグビーの基本的な考え方である「前へ」の精神や、one for all, all for one の精神を利用者、職員とともに身につけてもらえればと思っております。 

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5. 「働く人」をめざして、保護者の方々への提言

さなえは素人集団なのですが、従来の福祉施設とは同じようなことをするつもりはありません。常にチャレンジャーであり、常に一歩「前へ」進んでいきます。このさなえと学校・家庭とがone for all , all for oneの精神でしっかりスクラムを組み、「前へ」パスをつなぎ、ともに社会的経済的自立というトライを取りに行こうではありませんか。それと各人おのおのが人間力を鍛え鍛えて子供たちの将来を考え対応して行こうではありませんか。安心して死ねるようにするために。 

これで終わらせて頂きますが、長時間、独断と偏見に満ちた拙い話を御静聴頂き有難うございました。 
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9.「前へ」~ラグビー魂~

2012年7月7日

私はこの言葉が大好きである。若い時から無性に好きである。 

ラグビーというスポーツは、全員で一個のボールをパスで継いでトライを取り合って勝敗を競う。 
トライまでの出発点は、必ず誰かが身を挺して相手のボールを奪い取る事から始まる。 
その奪ったボールを落とす事なく継いで継いでやっと最後に受け取った人がトライをする。 
だからラグビーの世界ではトライをした人がヒーローではなく、そのトライは全員で獲得したものとされる。 

パスは必ず自分より後ろにいる人にしかできない、受けた人間は「前へ」出る。 
パスをした人は必ずパスを受けた人の後ろへフォローに走る。 
その動きは、パスを受けた人が落とさない限り無駄である。 
しかしそれを全員で後ろにフォローに行くのがラグビーである。 
試合には必ず相手がいる。相手がいるから迷いが生じる事や、躊躇する事は多々あるのだが、
そんな時に「迷った時は前へ」なのである。 
相手が攻めて来るとき、恐いとか、痛そうだからと言って一人だけ手を抜くと全員に迷惑がかかる。 
仲間の事を考えチームの事を考え、迷惑がかからないよう責任と義務を果す。 
これを「魂のタックル」と言うのだが、その気概がなくては本当のラグビーはできない。 

さなえの諸君はお互いに大切にパスをしているだろうか。 
「自分の赤ん坊」と思って愛情をもってパスしているか。 
そう思っていればパスする人も受ける人も落とす事はない。 
身を挺してチームのために取り組んでいるか。拘りを持って取り組んで入れば「前へ」行ける。 

トライできないから関係ないとかつまらないとか心が捻くれていないか。 
トライは全員で勝ち取るものなのだからいじけた狭い心を捨てなければならない。 
もうパスしたから関係ないとか、無駄だからフォローしないと思う身勝手な理屈や変な合理主義に 
陥っていないか。ラグビーは「無駄の有意義」を教えてくれる。 

相手に対したとき巧遅拙速の判断を誤り、変な言い訳が頭を支配して 
結果チームに迷惑をかけていないか。 
そんな輩のいる現実がある以上、メンバーはその無責任な人間を面倒がらず、 
愛情を持ってフォローし続けなければならない。 

ラグビーの基本は無限のフォローを通してトライをあげる事にある。 
さなえは継続してさなえの目的であるトライをあげるために 
職員・利用者を問わずどこまでもあきらめずフォローしていく「魂のフォロー」を大切にしたいと思う。 
そして、より「前へ」行こうではないか。

8.堀之内とスポーツ

2012年7月7日

かつて堀之内には野球場・県民会館・ラグビー場・市営プールがあった。 
松山のお城と西堀端、南堀端、県庁に囲まれた中心地にある。 
現在は市民会館・県立美術館・県立図書館・NHK放送局が残り 
スポーツ施設の跡はすべて公園となっている。 
そこでは各種イベントが行われ、日常的には市民の憩いの場となっている。 
お城山天守閣・二之丸跡と調和のとれた「ゆとり」 の空間である。 
そこに松山球場がある時には、松山の野球は強かった。 
甲子園での全国優勝も幾度となく、優勝パレードを子供心に見物して 
松山は野球、野球は松山を代表するスポーツだと誇りに思っていた。 

だが現在は松山の野球に、強い野球の面影は全くない。 
甲子園どころか、愛媛代表すら松山からめったに出ない。松山球場の伝統がとぎれたからかもしれない。 
そこにラグビー場がある時には松山のラグビーも強かった。全国大会でも中の上より上にいたと思う。 
今は北条・三島が強い。強いと言っても全国では一回戦をなかなか越えられない。 
かつて強かった松山のスポーツは、堀之内から移転してから弱くなりさがってしまったように思う。 

堀之内は松山の中心地である。明治から終戦まで陸軍の歩兵第二十二連隊の本部と練兵場があった。 
そこで鍛えた兵士たちは、日清・日露から前の大戦まで、 
郷土部隊として松山を背負って出征し凱旋したと思う。 
敗れる訳にはいかない。絶対に勝つ。 
そんな思いで鍛え鍛えた土地に造られた球技場やラグビー場だったからこそ、 
知らず知らずのうちにそこでプレーする者達は強かったのかもしれない。 

そして今、松山の繁華街は元気がない。世界経済や景気のためかもしれない。 
けれど、他の原因を分析して納得するのはシャクだから、堀之内を少しでもにぎやかにして、
堀之内のパワーを分けてもらう。そんな思いで「さなえラグビー部」を創部した。 
毎週日曜日十時から一時間程活動しているが、公務員、銀行員、自営業、OLから子供さんまで含めると 
総メンバー50名程になっている。 

スポーツ施設が無くなった堀之内でラグビーをやる。 
父祖の血汐に色映ゆる土地から鍛え抜かれた魂の力を授かる。 

「負けている」と「負けた」は全く別次元である。試合途中で「負けている」時に今日の試合は 
「負けた」と思う事が、自分が自分に「負けた」という事である。 
「負けている」時に「まだ勝てる」と考え、結果「負けた」としても 
次の試合こそは「勝つ」と思えるならば、それは自分自身に「負けた」ことではないと思う。 
簡単に自分に負けない精神力を「さなえラグビー」を通して体力と供に鍛えていってもらいたいと思う。 
今後も松山の中心、堀之内にて観光客や市民の人々に 
「さなえラグビー」の気魄を見物して頂くことにしましょうか。

7.行蔵は我に存す

2012年5月30日

「理事長、さなえが2ちゃんねるみたいな掲示板で中傷されてます。大変なことです。」 
いつもながらの大変病者達が楽しげに大騒ぎしている。 

「相手は不明、被害状況も不明です。」 
「とりあえず警察に被害届を出しましょうか?」 
「いいから放っておきなさい。」 

サービス管理責任者の一人が粗末なサイトを偶然見つけたらしいのだが、 
盛り上がりに欠ける「やらせ」との結論。 

「みんなで参加して盛り上げてあげなさい。攻撃は一切不要。 
もっと書いて頂くようお願いしておくこと。お礼も忘れずに。」 

そもそも匿名で誹謗中傷をするような人間を特定したところで意味はない。 
そんな人間は充実した人生とは縁のない、心根の貧しい、 
ねじれた人間なのだから関わる必要がない。世間も相手にはしない。 

先日、「呪いの時代」という本を読んで、この手の人間のことが少し理解できた。 
その本によれば、他人や組織を攻撃して相手にダメージを与えることが快感になっている人間は、 
その「呪い」の攻撃が廻り回って自分に還ってきて自己破滅する、というものであった。 
その行動の根源は、自己評価と他人の評価のギャップから生じるストレスらしい。 
そのストレスを、他へダメージを与えることで得られる快感でもって解消するということらしい。 
自分では正義と勘違いしている教師が、保護者からはあきれられており、特定の生徒だけをえこひいきする人間であったり、自分では信望があると思っている上司が、実は部下から軽蔑の対象でしかなく、平気で部下の手柄の横取りをする人間であったといったことはよく聞く話である。 
以前、老人のツメを剥いだ人も自己ストレスの発散として快楽・満足を求めて攻撃したのだろう。 

さなえも設立5年を経て、その活動や方針を理解して頂ける方々からは 
多大な評価と応援の言葉を頂戴している。 

多数の利用者に訓練の場を提供し、賃金を支払い、一般就労の実績を積み重ねてきている現実が 
あるのだから、我々さなえは何を言われようとも「毀誉は他人の主張」と 雑音に腹を立てることなく 
粛々と実績を示して歴史で証明していこうではないか。 

「行蔵は我に存す 毀誉は他人の主張」 

6.人の力に依りてこそ

2012年4月4日

「戦争の真髄は不確実性の連続である」とは「戦争論」におけるクラウゼヴィッツの言葉である。

福祉施設の組織論を考える場合「戦争論」と結びつけるのは多少の誤解を与えるかもしれないが、
生死を分ける戦場で適応できる組織には、形だけの組織や馴れ合いの組織にはない「緊張感」と
「強い意志」が強烈に存在すると思う。
刻々と変化する状況に対し果断に適正な判断を下していかなければ不確実な予期せぬ展開に対応できない。そして、その対応ができる人間を育て鍛え文化を保たなければ組織は滅んでしまう。

いかに贅沢な施設や設備を揃えようとも、それを運営するのは人だから経歴があるとか、
資格があるとかではなく、人間力のある、人として評価される精鋭が育たなくては組織は充実しない。

恥ずかしながら、かつては自分たちの施設の「清掃」をするというあたり前のことに対し、
不満と文句とその場しのぎの文化が存在したが、
現在は指導の賜物により、すばらしく清掃が行き届いている。
これは指導者の人間力と強い意志によって「文化」が変わった結果だと思う。
工場の効率も変化した。残業が美徳か役得の文化から、
定時になるべく完結する文化へと管理する人間が変わるだけで文化がまるで違ったものになる。

さなえのサービス管理責任者の諸君は、多数の利用者と接し負担も多いこととは思うが、
その機会を自己研鑽のチャンスととらえ人間力を向上させて欲しい。
その上で利用者や部下を「育てる」という強い意志を持ってもらいたいものである。
その結果、さなえの組織は強くなり、サービスの質も向上することだろう。

変なプライドに拘ったり毀誉に惑わされて不適切な判断をすれば戦場では敗北と死が待っているだけである。そうならないよう、緊張感を維持し人間力を鍛えつつ、強敵風波に当たろうではないか。

5.オーケストラの指揮者

2012年1月11日

私は福祉の世界のことを何も知らない未熟な理事長です。 
未熟ながらも、今までの人生における経験を礎にして「さなえ」というオーケストラの指揮を執っています。 

福祉の世界を楽曲の世界として考えると、雅楽やピアノを独奏している人もいれば 
グループを組んでロックを演奏している人もいると思います。 
私はその世界の中で「さなえ」という交響曲を演奏したいと思いました。 
交響曲であれば各種の楽器の演奏が織り成すシンフォニーですから。 
まさに「自立と共生」の演奏版が交響曲でしょう。 
しかし、私は演奏したくても何の楽器も扱えないものですから、指揮者になるしかなかったのです。 
指揮者となって「さなえ」という交響曲を世に問いたい、世に広めたいという思いばかりでした。

そのためには、まず各パートの演奏家が必要です。 
素人と半プロを織り交ぜて何とか形を整えて演奏を始めたところ 
指揮者の意図とはかけ離れた「さなえ」もどきの曲にしかなりませんでした。 
バイオリニストは椅子の不満と同僚のレベルの低さを呪い 
自分のギャラを1分単位で計算している照明係、勝手に好きな曲を決めて演奏を始めるトランぺッター 
自分が中心となる曲は演奏するが、他が中心となると非協力的なクラリネットなど問題の山積みでした。 

これはひとえに指揮者の形成してきた「体制の誤り」以外のなにものでもありません。 
それを解決しなくては無責任経営となります。なんとかして「さなえ」の目指す 
「独立自尊」の気概をもてる「自立と共生の社会」を高らかに演奏できないものか 
下手でもいいから曲として聴衆に届けることはできないかという一心で体制を刷新改革してきました。 

統率力や問題解決能力が欠如している者に権限を付与したこと、 
管理能力のない無責任な者に管理させたこと、これらすべて指揮者の責任です。 
しかし、現在の「さなえ」は違います。交渉、金銭、配置、任命といった組織の要諦は 
個人で決定することは不可能で、適正な運用となっており 
一貫した「さなえ」の価値観で演奏されるオーケストラになっていると思います。 

現在までも、また今後も継続してこの問題を常に克服し続けることによって 
「さなえ」という交響曲をより完成度の高い、素晴らしい曲として演奏できるよう頑張っていきたいものです。 

4.継続あっての支援

2011年11月15日

愛媛県において現在までに認可された障がい者の特例子会社は今どうなっているのだろう。国策に基づいて、手厚い保護優遇があったにもかかわらず今現在の時点ではかぞえるほどしか残っていない。この現実を目の当たりにすると、歴史の「創業と守成」論争が思い出される。やはり「守成」、継続のほうがより困難なのではないだろうか。 

「就労継続支援」とは継続して障がい者を支援していくことを義務としている。就労支援は、個人差があるにせよ、短期間で成し遂げられるものではないと思うし、場合によっては就労継続支援事業所での就労が限界の人もいる。この人達にとって「継続的な支援」は必須であろう。この「継続」して「支援」していくことの大前提としては、運営母体が「継続」して「存続」できていることが必須条件となる。こう考えると「支援」は「存続」の前提で成り立つものということができると思う。 

「創業」の場合、株式会社であれ、福祉事業であれ、熱い思いと資金とニーズがあれば設立は達成できる。しかし、その人一代創業という時間的な観点から判断すると創業の成功は少数にすぎない。創業の失敗、すなわち「倒産」はどの形であれ、他への影響が伴う。従業員の雇用、利用者への迷惑、社会に対する負債など、限りなく他人へ負担をかけることとなる。 

経営のことは誰しも先の先まで予想できることではないが、「福祉の理念」や「支援」を考える以前の根本的な大前提に、「存在の可能性」を考えるべきではないだろうか。それは経営における「倒産」の可能性をどこまで真剣に考えるか。すなわち、どうやって倒産を回避するかの前提の中でしか「支援」を考えてはいけない。その前提なしの「理念や支援」絶対主義は無責任な支援ではないかと思える。 

「利用者が集まらないとは思わなかった」 
「制度が変わるとは思わなかった」 

想定外を言い訳にする者に支援者の資格はないし、想定外のことが起こっても倒産しないところはしない現実がある。 
「社会の真髄は、不確実性の連続である」ということを常に認識していれば、毎日普通に「存続の可能性」を意識できる。今後「存在」を続けていく中で「さなえ」は謙虚に「創業」を達成し、あたりまえに「守成」をも達成できる組織になってもらいたいものだと思う。 

3.不安定さの中の安定

2011年10月10日

「理事長、毎日各事業所で様々な問題が起こっています。毎日が不安定です。」
「その不安定さがないと安定しないよ。」

意味が分かりにくいかもしれない。
相手もおそらく理解できないだろうなと思いつつ説明するしかない。

世間的に機械と名の付くものは、使えば必ず故障をすることがあるし、その時には修理が必要となる。故障が起こるということは問題の発生で、その修理代の発生は大問題である。その問題を回避するには使わなければ故障は起こらないことになる。すなわち、それが機械の安定である。しかし、機械を使わないということを企業経営の観点で考えるとどうであろうか。機械を使わないことは生産量あるいは品質が一定とならず結果として経営の不安定となる。機械の安定を求めたところ経営は不安定となり、機械の故障が起こるという不安定さの中に経営の安定は存在する。

そう考えれば、施設の現場で問題が起こるということは人と人の摩擦があり何かしら接点があって問題が発生しているのであって、その問題に管理者含めた職員一同がひたむきに取り組んでいる以上は施設として安定するのではないか。問題が発生しないように甘やかし見て見ない振りをしてその場をごまかすことのほうが、一瞬の安定を求めた結果として後々大問題となり、不安定になる。

これは職員間、利用者間でも同様である。対外的にはなおさら一瞬の安定を求める必要はないと思う。摩擦を怖れて接点を回避し、その場しのぎの事なかれ主義で安定を求めたところで、その問題は蓄積されるだけで解決はされない。その未解決を長く温存させることが不安定を結果的にまねくのである。

独楽は回転しているときが一番安定している。
我々はその軸になっていれば怖れることはない。

2.無限の素人

2011年9月24日

我々は素人である。 
その意味は責任を逃れるためでも、未熟さの言い訳でもない。 

誰であれ社会人になったばかりの時は社会人として素人であったし、親として子供を授かったときも不安だらけの親であったと思う。しかし、そんな中で、経験や知識における素人がなんとかしなくてはと真剣に取り組んで、社会人として、親として成長してきたのではないだろうか。また、歴史を見ても世の中を変革してきたのは素人である。 

戦国時代において価値観を変え、時代を変革したのは戦国大名としては素人の織田信長であった。高杉晋作の作った素人集団である奇兵隊は幕末における変革の一端を担った。自動車業界の変革を進めたのは織機屋のトヨタであり、バイク屋のホンダであった。 

素人が「プロ」を越えることは「プロ」の常識をうち破り、 新たな価値観を常識として世に認めてもらわない限りありえない。そのために素人は、悲しいけれど、真剣さ、ひたむきさを存亡をかけて示し続けなければならない。素人がそれを失した時に素人の、社会における存在意義が失われるものと思う。 

我々「さなえ」の諸君は、いつまでも謙虚な素人であって欲しいと思う。 変な「プロ意識」を持って高慢になったり、ひたむきさを失して自己の為、職員の為の福祉になったりするような愚を犯さないでもらいたい。無限の素人の意識が積み重なって「さなえ」の諸君は成長していけるものと信じている。その成長の中にこそ「さなえ」の存在意義があり、世に認められる可能性もあると思う。

1.最高の親孝行

2011年7月14日

「さなえ」は「自立と共生の社会」を目指すことを法人の目的としています。 
「自立」。自分の力で立つ、自分の力で生きていく、「独立自尊の精神」ではないでしょうか。 

世の中にはもちろん手厚い介護を必要とする人々も多数おられる現実があります。 しかし、就労を目指すような人々が、「福祉」というひとくくりの中で手厚く送迎され、 支援という名目で甘やかされ、社会人としての非常識を許されてもよいものでしょうか。 障がい者だから仕方がないとか、非常識が許されるとか そんな特別扱いが常識になっている支援では「独立自尊」は程遠いものと思います。 

就労先は一般企業であり福祉施設ではありません。普通の競争社会であって、 その中では福祉施設の常識や価値観で甘やかされる事はないのです。 なぜなら福祉の「プロ」の人はそこには存在しませんし、一般社員の人々は皆、素人なのです。 そんな中では「独立自尊」の気概と社会常識をある程度持たない限り継続していくことは困難でしょう。 

「さなえ」の就職支援の方針としては「独立自尊の精神」に鑑み、自力で通勤をし、 挨拶、清掃の徹底、健常者レベルの仕事の体験及びスキルアップを義務としています。 その暁に、就労が可能となり、経済的に自立し、また社会人として自立し、 親からの独立ができることを願うばかりです。 

そしてその自立を親が存命の内に成し遂げることを全身全霊をかけて支援したい。 私も3人の子を持つ親です。子を持って初めて分かったような気がします。 私は、私の最期の時に、3人の子供が「独立自尊」であるならば何も思い残すことはないと思います。 そんな子供達であってくれれば、私にとって最高の親孝行と思えます。